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<38・幻が首を絞める時>

 まずい、と分かっている。同時に頭の隅の冷静な部分が、きっとこれは幻覚なんだと訴えかけてきていた。

 だってちょっと前に、そういう話を聴いたばかりなのである。この『№512 紫の迷宮』はメンタルハザードの効果があり、長時間滞在すると精神を病む可能性が高いと。最終的には自殺に追い込まれるほどの幻覚を見ることがあると。

 だからこれはきっとその初期症状で、自分は今幻覚を見せられているだけなのだ。きっと己の中のルカインの記憶がそうさせているのだ、と。

 わかっていても、ミノルは動けなくなっていた。自分の中の何かが悲鳴を上げている。ただ怖いというだけではない。悲しみ、怒り、悔しさ。ありとあらゆる感情の本流が、己の奥底から湧き上がってくるのを感じるのだ。


「ルカイン、さ、ま」


 男はゆっくりと顔を上げる。ごぼ、ごぼ、とその唇が動くたびに血泡を吹くのが見えた。あぶくまじりの血が唇から顎鬚を汚し、まるで死人のような灰色の首元までを汚していく。


「俺ら、信じて、信じてたん、すよ?ルカインさま、な、ら……全部終わらせて、くれる、って。助けて、くれるって。みんな救って、俺たち魔族の、名誉を、取り戻してくれるって」


 彼は、どうして生きているのかもわからないほどの怪我をしていた。なんせ、そのみぞおちから下腹にかけて、巨大な穴が開いているのだ。その向こうの壁ががっつり見えるほどの穴。まるで、巨大な手で内臓を掴みだされたかのよう。千切れた中身がさながらアクセサリーのように垂れさがっているのが見えて吐き気を堪えることになった。

 いや、わかっている。この光景を気持ちが悪いなんて言う資格は自分にはない。だって、自分は、自分のせいで彼はこんなことになったのだ。己がもっと早く戦争を終わらせていれば、自分がもっと努力していれば、慎重になっていれば。

 そうだ、もっと頑張っていれば、頑張っていれば、頑張っていれば、頑張っていれば、がんばっていればがんばっていればがんばっていればがんばっていればガンバッテイレバガンバッテイレバガンバッテイレバコンナコンナコンナコンナコトニハ――!


「その、結果、が、これ……ですか」


 男の、青紫色に染まったがさがさに乾いた唇が笑みの形に歪んだ。


「その結果、おれ、ら、こんな、こんな……」

「……ごめん」


 無意識に、言葉を発していた。


「ごめん。……ごめん、本当に……ごめん。全部、俺の、せいだ……」


 じわり、と視界が滲んでいく。


「本当に、すまなかった……タロス」


 そうだ、彼の名前は――タロス。元々は兵士でもなんでもない農夫であり、家族を守れるならばとその手に持つものを農機具から重火器へと切り替えた。「あなたのために戦いますんでね!絶対勝ってくださいね陛下!」とそう笑っていたのを昨日のことのように思い出せる。

 そんな彼は、まさか戦場とは全く異なる場所で命を落とすこととなった。

 自分達の本拠地に送られてきた小包。差出人が彼の家族の名前だったがために、タロスは金属探知機も使わずに開けてしまったのだ。それは長引く戦争で、疲れきっていたのも原因だろう。少しでも癒しが欲しい、早くこの地獄から解放されたい――そう思っていた時、家族からの贈り物に喜んで飛びついてしまうのは仕方ないことではなかろうか。

 だがしかし、それが完全に罠だった。

 タロスがダンボール箱を開いた途端、中から眩しい光が放たれたのである。彼の嬉しそうな顔が恐怖に歪むのを見た。光の中、助けてくれ、と唇が動いたのが見えた。少し離れたところにいた自分は――ああ、自分は理解が追い付くと同時に、本能的に動いていたのだ。

 そう、彼を助けようとしたのではない。

 間に合わないと判断してしまった。そして、自分自身だけを、防御魔法で守ってしまったのだ!


「俺が、ちゃんと、言えば良かったんだ。小包は危ないって、ちゃんと金属探知機と魔力探知機使えよって。……家族の名前書いてあったって、送り主の偽装なんかいくらでもできる。家族を脅して利用することもある。本当に家族からの荷物なのかはちゃんと確認しなきゃダメだぞって……」


 なのに、言わなかった。言えなかった。

 あの時の自分は疲れ果てていて、そんな余裕もなくて。――わかっている、いくら言葉を並べたってそんなものはただの言い訳に過ぎないことは。


「しかも、お前のことを……無意識に見捨てた」

「ああ、そうだよ。あんた、は……げふっ。俺を、見捨てやがった、んだ」

「その通りだ!自分だけ助かろうとして、自分だけ魔法で守った!しかも、しかもお前が、お前が爆発後……痛い、苦しいって言ってるのに何もできなかった!」


 荷物はまさに、彼の腹の前で爆発し――その逞しい腹筋を、ハラワタを、背骨を軒並み吹っ飛ばしていったのだ。大量の血と肉片がまき散らされたにもかかわらず、魔族の強い生命力は彼に即死を許さなかった。痛い痛い、苦しい苦しいと子供のように嘆く彼を、自分はただ呆然と見ていることしかできなかった。

 明らかな致命傷。そして、傷の範囲が、大きさが、深さが酷すぎる。回復魔法で治したところで一般人に毛が生えた程度の体力しかない彼の生命力ではもたないことがわかりきっている。

 ならば治すべきなのか。それとも、いっそ苦しまないようにトドメを刺してやるべきなのか。

 そうだ、自分はどちらかを選択するべきだった。その努力をしなければいけなかった。それなのに――ああ、それなのに!


「治すことも、トドメを刺してやることもできず、俺は、何も、何もできなかったんだ……!」


 自分は、確かに見ていた。

 彼が白目をむいて、痙攣して死んでいく様を、大量の血が玄関を染め上げて、凄まじい死臭が漂うその光景を。パニックと、絶望と、悔恨と、恐怖と。あらゆる感情でめちゃくちゃになって、彼がついにあまりの苦痛から死を懇願しても何一つ手が出せなかったのである。

 だから、タロスは苦しんで苦しんで苦しんで――死んだ。

 自分が、そうさせてしまった。


「すまない……許して、くれ。許してくれぇ……!」


 頭を掻きむしり叫ぶも、ぬう、目の前に立つ影。ぼたぼたぼた、と髪の毛に血が滴る感触が。


「許さない」


 低い低い、怨嗟の声が。


「許さない。あんたを、絶対、おれ、は……許さないぃぃ」

「あ、ああ、あ」

「あんたが、こんな戦争やらなきゃ良かったんだ。あんたが、あんたのせいで、あんたさえいなければ……」


 しね。

 呪いとともに、その言葉が吐かれる。


「死ね。死んでくれ。死ぬんだよ。あんたのせいなんだ。全部全部全部あんたのせいで、全部、あんたのせいで、だから」


 ぎょろん、と血走った目に射貫かれる。ミノルの頬を、だらだらと涙が伝っていく。それを止める術が、ない。




「おれに、わるいとおもうなら、しんでくれ」




 ああ、そうか。

 そういうことか。


「さいしょから、そうすればよかったな、タロス。おれが、しねば、ぜんぶ」


 そうすればなにもかもうまくいって、みんなしあわせになって、まぞくもにんげんもたのしくくらせるようになって、そうだじぶんさえいなければ、このせかいにじぶんさえいなければいいんだ、なんでこんなかんたんなことにきづかなかった、おれはばかなんだな、ほんとうにとてもシンプルなことだったじゃないか、ころせばいい、じぶんをころせばいいんだ、そうすればまるくおさまる、だからころせ、ころせ、ころせばいい、ころせ、ころせ、ころせ――。




「陛下!!」




 ぐい、と次の瞬間腕を強く引っ張られた。さらに。




「〝Hurricane〟!」

「うわああああ!?」


 突風。あまりも強すぎる風に、ミノルは思わず頭を抱えてうずくまった。同時に、目の前に立っていた男の姿がバラバラに切り裂かれて吹き飛んでいく。


「あ、あ、タロス……たろ……え?」


 そこでようやくミノルは我に返ったのである。タロスって、一体誰だ。自分は一倉ミノル。ルカインではない。それなのに今自分は当然のように――目の前の男を旧知の友のように思ってはいなかったか?同時に、己がミノルではなく、完全にルカインだと考えてはいなかったか?

 そう、ここは夢の中ではなく、現実世界だというのに。


「しっかりしてください、陛下!」

「あ、し、静……」

「そうです、静です!!」


 そして、そんな自分の頬をひっぱたいたのは、静である。なんとなく理解した。どうやらミノルは幻覚を見て完全に正気を失っていたらしい。それを、風魔法をぶっぱなすことによって静がこちら側に引き戻してくれたのだ。

 初めて見る、心底焦ったような静の顔。それを見て、ミノルは心の底から申し訳ない気持ちになった。


「ご、ごめん。俺、完全に……幻に、やられてた」


 そう、幻覚を見る可能性があるのは知っていたのに、完全に負けてしまっていたのである。しかも、自分自身と『ルカイン』の境界線が完全になくなっていた――否、むしろ完璧にルカインに飲み込まれてしまっていたのだから笑えもしない。


「あ、やっぱり幻見てたんだ……」


 すぐ後ろで、大空が心底ほっとしたような声を出した。


「急に靴箱の裏見て凍り付いて、変なことぶつぶつ言い出すから驚いた。うわ、やっぱこの空間、ヤバいんだね……」

「ああ。……ってことは、あの血まみれの男、大空たちには見えてなかったんだな」

「血まみれの人が見えてたの!?怖すぎ!いんや、僕達にはなんも見えてないよ。てか、幻覚見えるようになるのが早すぎない?大丈夫?」

「……あんま、大丈夫じゃない、かも」


 ミノルは拳をぐー、ぱー、と握りながら言う。そんなミノルを、社も不安そうに見つめている。どうやら自分はよっぽどおかしくなっていた、ということらしかった。


――俺は、一倉ミノルだ。そのはずだろ……?


 前世がルカインであることは知っていたし、聞いていた。それでも、まだ心のどこかで他人事のように思っていたのも事実だ。夢の中で彼になっていたとて、それはあくまで夢の世界の物語にすぎなかったのだから。

 でも、今は違う。ミノルは自分が、完全にルカインになっていたことを知った。否、それは元々己の中に確かに存在する自分自身だと理解できてしまったのだ。


――怖い。


 震えが、止まらない。幻の内容ではない。

 もしルカインとしての記憶を取り戻したら、自分はどうなってしまうのだろう。一倉ミノルという人格を、本当に保っておくことができるのだろうか。


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