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<26・ルールの隙を突くこと>

「があああっ!」


 さっきと同じだ。青いボールを手で掴んだ途端激痛が走る。本来ならばすぐに離して逃げてしまいところだ。

 それでも、ミノルは歯を食いしばって耐えた。恐らく、これが唯一自分が勝てる方法だと考えたがゆえに。


「く、おおおっ……!」


 そのまま思い切りボールを天井の方へ投げる。そして、ブールサイドの壁を蹴って――ボールの方へと飛び上がった。


「食らいやがれええええええぇぇー!!」

「!!」


 空中でボールを蹴った途端、右足にも激痛が走った。それでも、一度経験した痛みならばまだ覚悟ができる、耐えられる。歯を強く食いしばった状態で足を振りぬいた。狙うは――何も知らず、泳いでいく大空の方。


「!」


 タイミングは、ドンピシャリだった。息継ぎをしようと浮上した大空の後頭部に、思い切り青いボールが激突したのだから。


「うわあああああ!?な、な、何がっ……」


 流石にこれは予測できなかったのだろう。大空は後頭部を押さえて悲鳴を上げている。

 ボールでの衝撃は痛みだけ。けして怪我をするわけではない、というのはさっきのでわかった。だから耐えられないわけじゃない。痛みのレベルも精々、静電気を強くしたようなレベルなのだから。

 それでも、耐えられるのはあくまで〝覚悟していた場合〟に限定されるのである。完全に不意打ちで、しかも頭にあれを食らったらそうそう我慢なんてできるはずがない。目の前で火花が散り、暫く上下左右何もわからなくなるくらいの衝撃を受けるはずだ。

 つまりそれが、自分にとってのチャンスというわけである。


――今だ!


 ミノルはそのままプールに飛び込むと、全力で泳ぎ始めた。

 思った通り、大空はまだ復帰できない。潜水と浮上を繰り返しながら彼の横をすり抜け、どうにか逆転することに成功する。


――よし、なんとか、このまま……!


 自分の作戦は、完璧だったはずだ。問題は、ミノルの泳ぐ速度が中の上程度であったということ。泳ぐのに必死で、振り返る余裕もなかったこと。

 同時に、百メートルという距離の問題。

 そう、素人が全力で泳げる限界なんぞ、二十五メートル程度でしかないのだ。この勝負はプールを二往復しなければいけない。百メートルの全てを全力で泳ぎ切るのは、実のところ相応の技術がいるのだ。


「が、げぼっ……!」


 それをミノルが悟るまで、そうそう時間はかからなかった。スタート地点までの帰還。五十メートル泳ぎきったところで、頭がぐるぐる回るような感覚に襲われる。


――く、くそ……!これ、そ、想像以上にきつい!


 障害物のボールを避けながら進まなければいけず、まっすぐ泳ぐことができない状況。

 そしてボールを避けるために潜水し、息継ぎのために時折浮上する。それが想像以上に己の体力を奪っていることに、ミノルはここでようやく気付いたのだ。


――う、嘘だろ……!?たった五十メートルで、こんな……!


 ミノルの水泳スキルは平均より少し上程度だ。それでも、平泳ぎなら一キロくらいは泳ぐことができる。過去ジムのプールに行った時もそれくらいは平気で泳ぎきっていたのだから。

 同時に、長らくサッカーをやっていた分、体力にも自信があるつもりだった。事実五條泰輔とミニサッカー勝負をした時はほとんど息も上がらなかったというのに。


――く、くそ……無理でもなんでも、頑張れよ俺!絶対負けられねえだろうが……!


 ターンをしようとした、その時だった。


「え」


 ミノルはぎょっとさせられることになる。すぐ目の前に、大空の姿があったからだ。


「このタイミングなら、逃げられないでしょ」


 にやり、と笑って言う大空。その手には、赤いボールが握られている。


「お・か・え・し!」




『問題ないよ。なんなら、相手の進路妨害してもいいってことにする。あ、ターンの時のタッチは両手でやらなきゃだめだよ、平泳ぎだからね!』




 ルール説明の時の大空の言葉を思い出す。相手の進路妨害をしてもいい。そうだ、そのルールがあったからこそ自分も彼にボールをぶつけた。

 ならば大空が、自分のコースに侵入して同じことをしてくる可能性もあったではないか。


「が」


 次の瞬間、顔面に灼熱。


「ぎゃ、あ、あああああ、ああ、ぁぁぁー!?」


 罅割れた悲鳴が喉から迸った。熱い。額が割れる。鼻が、頬が、目が溶けてしまいそうだ。目の前が真っ赤になり、何も考えられなくなる。


「が、がが、がっ!」


 さすがに顔面への一撃は、効いた。しかも数秒顔に押し付けられたのだからたまったものではない。顔を押さえて水中でもがき苦しむ。悲鳴を上げた結果肺の中の酸素を吐き出してしまい、溺れそうになってますます焦ることになる。

 大空が立てる水音が遠ざかっていくのがわかった。順調にターンして、残り半分を進み始めたのだろう。まずい、せっかくのリードがこれで完全にチャラになってしまった。


「く、くうっ……!」


 このままでは、負ける。なんとか痛みが引いてきたところで、ミノルも追いかけようとした。ゴーグルごしに確認すれば、大空はだいぶ先まで進んでしまっている。


――も、もう一度だ!もう一度ボールぶつけて、あいつの動きを止める!


 他に方法はない。自分のキック力ならば、水で濡れたボールもかなり飛ばせることがさっきのでわかっている。あの距離ならまだ射程圏内だ。痛みをこらえながら、自分の傍に浮いていた赤いボールを掴み取る。

 手で握るだけならちょっとなら耐えられる。もう一度ボールを高く放り投げ、プールの壁を蹴ろうとした。水の中から一気に飛び出して、キックを――。


「え」


 しかし。

 ミノルの体はうまくジャンプできず、あっけなくプールに落下した。ボールがぼちゃん、と空しく落ちる音がする。足に、力が入らない。息が苦しい。


――だ、ダメだこれ……力が入らな……。


 そうこうしているうちに、大空の姿はどんどん遠ざかってしまう。この距離ではもうボールも当たらない。


「ち、畜生……!」


 やむなく、普通に泳ぐ選択をした。ちかちかする視界、水が重たくてたまらない。少し進んだところで、足がボールを蹴ってしまったようだった。

 びりびりびりびり、と電撃の衝撃が走る。


「うわああああっ!?く、くそ、くそ、くそおおお!!」


 足だったので、頭に受けるよりはダメージがなかった。それでも足が痺れて、体が勝手にプールを沈んでいってしまう。恐らく蹴ってしまったのは黄色いボールだろう。


――嘘、だろ……。


 大空が遥か先、最後のターンをするのが見えた。


――こ、こんな簡単に……負けるのか、俺。終わるってのかよ、おい……!


 絶望。それはごぼごぼという水の音と共にミノルの体を支配し、容赦なく縛り付けて――沈めていったのだった。




 ***




「はいはーい、僕の勝ちね!」

「…………」


 言葉も、出ない。

 プールサイドに上がったところで、ミノルはぜえぜえと息をしながらその場にへたりこむしかなかった。床が綺麗じゃないかもしれないとか、そんなことがちらりと頭の隅に過ぎったがそれ以上考えることはできなかった。

 疲れ切っている。でもそれ以上に、頭の中が真っ白だった。

 自分は、自分の尊厳を守るために絶対勝たなければいけなかったはずだ。しかも、今回はペナルティの内容が不明という恐怖。大空が言う命令に、自分はどんなものであっても従わなければいけないのだ。

 性奴隷になれと言われたらならねばならない。

 人を殺せと言われたら殺さねばならない。

 そして、死ねと言われればそれも従う他ない。


――ご、ごめん……。


 頭の中に浮かんだのは、静の顔だった。


――俺、馬鹿だった。静はあんなに気を使ってくれてたっぽいのに……俺がヘマして、こんなに簡単に負けちまうなんて……!


 いや、そもそもこのゲーム、本当に勝ち目なんてものがあったのだろうか。

 だってミノルは魔法の知識もないから、ボールのダメージを防ぐこともできない。水泳だって、大空より遥かにスキルが下。変則的な平泳ぎで百メートル泳ぎ切っただけで褒めて欲しいくらいではないか。

 そうだ、いくらなんでもこんなのはズルい。勝ち目がない勝負を、魔女の夜会サバトが許すなんて、そんなこと――。


「あのさあ」


 そんなミノルの考えは、お見通しだったらしい。大空が呆れたように言う。


「勝ち目のない勝負を仕掛けやがって、ズルい!こんなの通るわけない!……とか思ってるんじゃないの?勝負終わった後だから言うけどさ。……ミノルくん、充分勝ち目はあったんだよ?」

「え」


 どういうことだ、とミノルは顔を上げる。大空は肩をすくめて告げた。


「僕が君になんてルール説明したか、よーく思い出してみてよ。このゲーム、抜け道があったんだよね、実は」

「ぬ、抜け道?それって……」

「だから、よく思い出して考えてみろってば」


 抜け道。ルール説明で、彼はなんと言っていただろうか。疲弊した脳みそをどうにか回して、ミノルは記憶をほじくり返す。




『勝負は、二十五メートルプールの端から端までを二往復すること!つまり、百メートル勝負だね』




『ターンの際は、必ずこのパネルをタッチすること。ちゃんとタッチしないで折り返した奴には電撃でペナルティがあります!』




「ま、まさか……」


 自分は完全に思い違いをしていた。ここでようやく、ミノルは気づいたのだ。


「お、泳がなくても、良かったのか!?」

「そういうこと」


 うんうん、と頷くミノル。


「僕は一言も〝泳いで百メートル進め〟なんて言ってない。泳ぐなら平泳ぎでとは言ったけど、それは泳ぐなら、の話。プールの端から端まで二往復しろとしか言ってないんだよね。つまり……君はプールサイドを走って往復したって良かったのさ。ちゃんとパネルをタッチさえすれば」

「う、嘘だろ、じゃあお前はなんで、泳いで……」

「決まってる。君に、泳ぐしかないって思いこませるためさ。プールサイドを走る勝負になったら五分の勝負になっちゃうからね。……まあ僕が泳ぐまでもなく、君は泳ぎの勝負だと勝手に思い込んでくれたみたいだけど?」




『なるほど、あのボールをよけながら泳ぐしかないってわけか』




 やられた、と。ミノルは肩を落とすしかなかった。

 この抜け道があったから、魔女の夜会サバトが成立したのだ。本当は最初から、障害物平泳ぎの勝負ではなかった。なんなら彼が自分をハメるために泳ぎ始めたところでプールから上がり、プールサイドからボールを投げつけつつ上を走ってしまっても良かったのである。

 そうすれば、ミノルが勝っていたかもしれない。

 なんでこんな簡単なことにも気づかなかったのだろう。


「もう少し、おつむを柔らかくしないとダメだよ、ミノルくん?」


 これはもう、完敗としか言いようがない。打ちひしがれるミノルに、大空は勝ち誇ったように笑みを浮かべて言ったのだった。


「君の敗因は、ルールをちゃーんと聴かなかったこと。その隙にあるものを見抜く努力が足りなかったこと。……お生憎様だったねえ?」


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