――い、今のは、なんだ?
明らかに、声が聞こえた。しかも鏡の中の自分の顔が歪んだようだ。
「気のせい、か?」
ホラー映画は見るが、怖いもの見たさで見るというやつなので、そんなに得意な方ではない。きょろきょろと周囲を見回すが、やっぱり今トイレには自分一人しかいなかった。個室もすべて空だ。ここのトイレは、人が入っていないとドアが開く仕組みなので、判別するのが難しくないのである。
最近変な夢を見ているせいで、疲れているのかもしれない。
目をごしごしと擦ってもう一度鏡を見た時だった。
「……へ?」
喉から、変な声が漏れた。
さっきまで鏡の中にいたのは、ツンツンした黒髪に童顔の男子高校生――つまり一倉ミノル、自分自身の顔であったはずである。ところがそれが、唐突にまったく別人の姿に取って代わったのだから。
鏡の中に立っていたのは、六十代半ばくらいのおじいさんだった。がっしりとした大柄な体格であり、ブラウンのスーツを身に纏っている。まるでヤクザの親分にも見えるような、威圧感のある人物だった。
『気のせいではない……一倉ミノルくん』
低い声が、洗面所に響き渡る。
『時は来た。君が、本当の君を思い出す時が。自分自身の運命を確かめる時が。……さあ、儂らの元へ来るがいい。そして……全てを思い出し、継承せよ』
一体何を言っているのだろう。というか、自分は何を見ているのだろう。
――こ、これは夢か?俺、また立ったまま夢見てる?というかそもそも、トイレに来たところから夢ってオチかな?あははははは……。
人間、あまりにも信じがたいことが起きるとフリーズするものだ。
口を金魚のようにぱくぱくさせたまま動けなくなっていると、不意に上履きを履いた足が熱くなったような感覚を覚えた。同時に、足元から紫色の光があふれ出してくる。
何だ、と思って自分の足元を見たミノルはぎょっとして悲鳴を上げていた。
「な、ななな、な」
足元には、巨大な魔方陣が出来上がっていたのだから。
「なんじゃこりゃあああああああああああああああああああああああああああああ!?」
真ん中に六芒星のような星があり、その周囲を何語かもわからない文字がぐるぐると回っている。そう、ミノルを中心に、紫色に光る魔方陣が足元に展開されているのだ。そしてくるくると回りながら、ゆっくりとミノルの体を飲みこもうとしていく。
ずぶ、と足が地面に沈む感覚があった。よくわからないがまずい、と焦る。このままだと、何かとんでもない事が起きるような気がする、と。
「ま、待て待て待て待て、これなに?え、これなんなの、え!?俺どうなっちゃうの!?ていうかやめて!?」
パニックになって叫ぶと、鏡の中のおじいさんが再度言う。
『儂は魔王学園アルカディアの校長……
さあ、と彼が手を差し出すような仕草をする。
『運命を受け入れるのだ。我らが魔王……ルカインよ!』
ルカイン。それは、自分が夢の中で呼ばれていた名前ではないか。
――一体、何が、どうなって……!?
ずぶずぶずぶずぶずぶ。ミノルがいくら藻掻いたところで、抗うことなどできるはずがなかった。足首、膝、太もも、腰、胸、腕、そして頭。体はあっという間に地面に沈み込むように、魔方陣に飲み込まれていったのである。
目の前を、キラキラした紫色の光が包んでいた。男なのか女なのか、子供なのか大人なのかもわからないいくつもの声が木霊していく。
『きたきたきたきたきたきた』
『魔王様、我らの祈りを聞き届けよ』
『ああ、本当にめでたい、我らが魔王様が異世界で生きておられた!』
『今宵は祭』
『祭ぞ、祭ぞ、祭ぞ、祭ぞ!』
『あな嬉しや!』
『あああああ!』
『魔王様!魔王様!魔王様!魔王様!』
『嬉しすぎて、言葉も出ない』
『一体誰を次の継承者に選ばれるのか』
『アクァアアアアアァァァ!!』
『魔王様に愛される幸運な王子はいずれか』
『どうかこの世界の救世を!』
『使命をお果たし下さいませ!』
『鬲皮視讒倥↓諢帙@縺ヲ縺?◆縺?縺代k縺ョ縺ァ縺励◆繧臥ァ√?菴輔b縺?』
『@43cpjq43ーqmc、4rm0cq、4!!』
『そう、これが奇跡』
『いざ参られよ、魔王……ルカイン』
それらの声の中には、ただの雄叫びにしか聞こえないようなものもあれば、人間の声なのかもわからないような意味不明な言語も存在した。
ただ、一つだけ、何故かこれだけは確信に近く思ったのである。
――この沢山の声たちは……俺を、歓迎してる。
何故そう思ったのか、自分でもわからなかった。
ぐるぐると巡るたくさんの思念の本流の中、ミノルの意識はまるで押し流されるように――遠ざかっていったのだった。
***
「……は、――すがに」
誰かが、自分を呼んでいる。
「だが――……、彼……い……でも――魔法、しかし……」
「――陛下……で?」
呼びながら、会話をしている。恐らく、人は二人いるようだ。渋いバリトンボイスと、どこか中性的な少年の声。なんだか聞き覚えがあるような気がする、と思ってミノルははっとした。
渋い方の声は――そうだ。自分を、鏡の中から呼んでいたおじいさんの声ではないか。
ということは、自分によくわからない術をかけた人間?幽霊?とにかくそういう人物が目の前にいるということなのでは?
――と、とにかく、いろいろ訊かないと。ていうか……!
何かがおかしい。目を瞑ったまま、自分が倒れている床をまさぐってみて気づいた。
なんだかちょっと、ふわふわしている。まるで絨毯の上にでも転がされているかのような。
それはつまり、ここが学校のトイレの床の上ではない、ということで。
「な」
ぎょっとして目を開ける。真っ先に視界に入ってきたのは、真っ赤な毛足の絨毯だった。
「ちょ、ここ、ここどこだよ、え!?」
叫びながら体を起こした。途端、頭がぐらぐらして再び崩れ落ちそうになる。なんだか、妙に吐き気もしてきて気分が最悪だ。この感覚は、うっかりバス酔いしてしまった時のそれに似ているような。
「う、ぐぐぐ、ぐ」
首を強引に傾けて、天井を見上げる。茶色のつやつやとした木目が目に入った。上からは、ランタンのような形をした照明が垂れさがっているようだ。今は明かりがついていないが、それでも眩しい。――すぐそこの大窓から、光が差し込んできているから、らしい。
――ほ、本当に、ここ、どこ?
知っているもので一番近いのは――学校の校長室だ。一度だけ校長先生に呼び出されて入ったことがあるのである。まるで大きな教卓、のような執務机。その後ろに大窓。部屋の中にはアンティーク調の柱時計やら、高級そうな書棚やらが並んでいる。こんな状況でなければ、ちょっとお洒落な部屋だな、と興味深く探索したのかもしれなかった。
そしてその執務机の前に座っているのは、老年の男性である。もう一人、正面に立っている眼鏡をかけたおかっぱ頭の銀髪の少年もいる。少年は、どこかの学校の制服のようなものを着ていた。ミノルの高校のそれとは違い、茶色のブレザーである。そしてその顔立ちは、そんじょそこらの女性アイドルでも見ないくらいには美しいものだった。
「な、何が、どうなって……」
床に座り込んだまま、ミノルは尋ねる。
「あ、あんたら……誰?ここ、どこ?」
銀髪の少年に見覚えはなかったが、老年の男性は見た記憶がある。まさに、鏡の中から自分に呼びかけていた人物と同じ顔だ。ということは、彼が自分を無理やりこの場所に連れてきたのだろうか。
「強引に立ち上がらない方がいいですよ」
少年が涼やかな声で言う。
「世界の壁を超える転送魔法は、負担が大きいものですからね。頭の中、ぐわんぐわんしてるんじゃありません?無理に立つと吐きますよ」
「……うん、ちょっと、吐きそう」
「慣れるまで、暫くそこに座っていてどうぞ。……よろしいですよね、校長?」
「うむ」
さっきの老年の男性は校長、と呼ばれる人間であるようだ。ということは、此処は本当にどこかの学校の校長室、なのだろうか。
そうだ、さっき男性は名前も名乗っていた。確か。
「あんた……オバケか、何かか?それとも魔法使いとかかか?京堂とか、なんとか」
「後者が正解だな」
どこかでバリトン歌手でもやっていました、と言われても納得するくらいのイイ声で言う京堂。
「もう一度、きちんと名乗ろう。儂はこの魔王学園『アルカディア』の校長、京堂孝三郎である。まずは、手荒な真似をしてすまなかったと詫びよう。申し訳ないが、どうしても君にこの世界に来てもらう必要があったので、強制的に転送させてもらったのだ」
「あるかでぃあ……魔王、学園?ん?『魔法』学園じゃなくて?」
「魔王学園、で正しいですよ」
補足したのは、銀髪の美少年である。
「この学校は、かつてこの世界を統べた魔王陛下……その後継者を育成し、強い魔族を育てるための学校ですからね。この学校の生徒は全て、魔王陛下の継承者候補なのです」
まるで、ゲームの世界のようなお話である。思わず口を開けてぽかーんとしてしまうミノル。
やっぱり自分は何かの夢を見ている、としか思えない。しかし、なんとなくほっぺをつねってみたら普通に痛い。痛いような気がしているだけなのか、あるいは。
「申し遅れました。あなたを転送する魔法の補助役を努めさせて頂いた……
少年はうやうやしく礼をしてきた。
「ようこそいらっしゃいました、先代魔王陛下……ルカイン様。貴方様のお越しを、我ら魔族一同、心からお待ちしていたのです」