パチパチパチ、と炎が爆ぜる音はする。暖炉の火が煌々と燃える、薄暗い部屋。そんな中、ソファーに座った男――ルカインは、苦虫を嚙み潰したような気分で渡された紙をめくっていた。
それは、ここ最近で行われた戦闘と、その被害状況をまとめた報告書である。ルカインは魔王軍のトップ。常に軍の状況を把握し、的確な指示を出さなければいけない立場だ。だからどれほど凄惨な報告であっても、きちんと目を通して理解しなければいけないのである。
そう例え、一個小隊がまるごと地雷で吹き飛ばされ、もはや誰が誰なのかもわからぬ肉片が雪原に飛び散っていて回収不可能でした――というものであっても。
人間達に捕虜とされていた部下たちが、壮絶な拷問の末火炙りにされて殺されたというものであっても。
命からがら生きて帰った可愛い部下の一人が、片方の眼球と腕を失い、しかもセルショックによるトラウマのせいで病院で暴れてしまっているという話であっても。
自分は目を逸らせない、耳を塞げない。そんな資格など、己にあろうはずもないのだ。
どんな理由であれこの戦争を始めてしまったのは自分で、理想のために最後まで戦い抜く義務があるのも自分自身であるのだから。
「……魔王様」
その報告書を持ってきた青年――フレアが、泣き出しそうな声で言う。
「少し、お休みになられては?もう夜も遅いですし、昨日もまともに寝ていらっしゃらないのでしょう?」
「何を言う。お前たち部下が戦い続けているのに、俺だけおめおめと布団に入れと?」
というか、とルカインは苦い気持ちで吐き出した。
「二人きりの時は魔王様じゃなくて、ルカインって呼んでくれっていつも言ってるだろうが」
「それはその……失礼しました。ルカイン」
「まあ、お前の丁寧語については諦めてるけどさ。……お前は俺の参謀であると同時に、恋人でもあるってことを忘れてくれれるなって」
「そう、ですね。ありがとうございます」
銀髪に白い肌――フレアの美しい顔が、少しだけ赤らむのが見えた。もうキス以上のことだって何度もしている仲だというのに、こんな言葉一つで照れるのがなんとも可愛らしい。もし、もう少し時間と体力に余裕があったなら、この場で抱きしめてベッドになだれこんでいるところだというのに。
「ルカイン。ひょっとして……悩んでいらっしゃいますか」
そっと、フレアが隣に腰掛けてくる。
「オブリゲートの戦いは、凄惨なものでした。……ルカインが可愛がっていた第二小隊の部下たちが、全滅したと」
「……ああ」
「ルカインのせいではありません。彼らは命と引き換えに、ちゃんと砦を守り通したのです。その結果、オブリゲートの町は未だに戦火に晒されずに済んでいる。彼らは、立派に信念を貫き通した。貴方はそれを、褒め讃え、誇りに思わなければなりません」
「ああ、わかってる。……奴らもそれを望むだろうってことはな。だけど」
くしゃり、と手の中で紙が潰れる音がした。
「それでも、納得できねえことはあるんだよ……!なんで、なんでみんな死んでいくんだ。他に、方法はなかったのか?こんなに仲間を死なせずに済む方法が……あいつらを人殺しにせずに済む方法が。ああ、散々交渉して、それでも無理だったってのはわかってるさ。結局向こうが宣戦布告もそこそこにミサイルぶち込んできたんだからどうしようもねえってことくらいは!守るために戦わなきゃいけねえことも、だけど、でも……!」
「ルカイン」
そっと、ルカインの背中に細い腕が回った。フレアはルカインの体を抱きしめて、はっきりと告げたのである。
「私が、いつも傍におります。……貴方の苦しみも、悲しみも、痛みも、罪も。全て共に背負うために……私がここにいるのです。どうか、それをお忘れなきよう」
「フレア……」
「茨の道も、地獄も……共に参りましょう。貴方となら、何一つ怖くなどないのですから」
わかっている。フレアを抱きしめ返して、ルカインは思うのだ。
自分は幸せ者だ。一人ではないことを、どのような苦楽も共にできる恋人が参謀として傍にいてくれることを、何より幸福に思うべきなのだと。
それでも、願わずにはいられないのである。
――どうか……どうか。全ての悲しみが、絶望が……これで最後とならんことを。
祈るだけで、世界は変わらない。
願うだけで聞き届けてくれる、都合の良い神様なんてこの世にはいない。
ハッピーエンドはどこにもない。だから、自分達の手で、傷だらけになりながら築き上げるしかないのだと。
――強くならなければ。
ぎゅっと、フレアを抱きしめる腕に力をこめて、思う。
――もっともっと、強くならなければ。単なる力だけじゃない……心までも。
それが、魔王であることを選び、この戦争を始めた自分の義務なのだから。
***
ジリリリリリリリリリリリリリ!
けたたましい目覚まし時計の音とおもに、
「どわあああああああああああああああああ!?」
思い切り顔面から激突し、目の前に星が散る。ああ、なんでこの目覚まし時計の音はこんなにデカいのだろう。確かに自分は朝が弱い方だけれど、だからってこんな大音量で設定しなくてもいいではないか。
あと、もう何年もこの目覚ましを使っているのだから、いい加減こんなにびっくりしなくてもいいではないか自分。どうしてちっとも慣れないのだろう?
「い、いてえ……痛すぎるう……」
ぐらぐらする頭を振りながら、どうにか這いずってベッドに戻った。そして、耳に痛いほどの音で騒ぐ時計のスイッチを切る。巨大な灰色のネズミを象った時計は、ようやくそれで沈黙した。時刻は六時半。起きなければいけない、のは確かだ。
「はあ……」
少し前なら、セットされている時間は五時半だったのに。そう思うとなんだか憂鬱な気持ちになってしまう。起きる時間が一時間遅くなったのは、サッカー部の朝練がなくなったせいだった。
ミノルは現在、高校三年生。わかっているのだ、いつまでも引退したサッカー部のことを引きずってばかりもいられないということは。そして、受験のために今は必死で勉強しなければいけない時期だということも。
それなのに、どうしてもやる気が出ない。勉強が好きでないのもそうだが、毎日毎日あれだけ真剣に打ちこんでいたものを急に取り上げられて、ぽっかりと胸に穴があいたような気分になってしまっているというのが大きい。
ちらり、とベッド脇にぶら下がっているサッカーボールを見る。あちこち薄汚れて傷がついたボール。夏の大会で引退してからずっと、ネットに入ったまま取り出されることがなくなってしまった。ちょっと前までは部活が休みの日だって持ち出して、公園で自主練に励んでいたというのに、だ。
――いい加減、切り替えなきゃいけない。わかってんだよ、そんなことは。
欠伸をしながら、姿見の前に立つ。
あっちこっちつんつん跳ねた黒髪、子供っぽい大きな目。未だに中学生みたいな幼い顔をしたパジャマ姿の青年が映っている。もうちょっと筋肉欲しいよなあ、と自分の太ももを触りながら思ってしまった。足はまだいいが、肩幅がどうにも心もとない。父はもっとマッチョで、男らしい体格だというのに。
いや、今気にするべきは筋肉より脳みその方だ、というのはわかっているのだけれど。鏡の中の自分を見るたび、ついつい余計なことばかり思ってしまうのだ。
そう、例えば――夢の中で見た、あの大男みたいになれたらどんなにいいだろう、と。
――マッチョになりてえなあ……。
最近見る、妙な夢。
その内容のほとんどは、朝になったら忘れてしまっている。ただ、ぼんやりとしたイメージと設定だけ記憶しているのだ。
夢の中で、自分は魔王ルカインと呼ばれるマッチョな大男になっている。そして、何故か同性の恋人がいて、その人物を参謀と呼んでいる。
何やら戦争中らしく、真剣な顔で戦況について話し合っている。そして、時々恋人とキスをする――とまあ、そんな内容である。
――確かに、あの参謀の兄ちゃんは超美人だったけど。なんで恋人、男やねん。
思わず大阪弁でつっこみをいれてしまうミノル。
確かに、マッチョ男子はそっちの趣味がある人間にモテるのかもしれないが。別に、ミノル自身にそういう趣向があるわけではない。まあ、今まで本気で恋愛なんかしたことがないので、ストレートだと思い込んでいるだけ、という可能性は完全に否定できないけれど。
夢というのは、自分の願望が投影された者であることが多い、はずである。
あるいは恐怖とか、トラウマとかが悪夢になって現れることもあるだろう。いずれにせよ、男性が恋人だったらいいななんて思ったことはないし、魔王になって世界征服したいなんて想像もしたことはない。なのに何故、自分は最近あんな夢ばかり見るのだろう。まあ、マッチョ男子になっていることに関しては、自分の願望が投影された結果なのかもしれないけれど。
――設定も、微妙に凝ってたっぽい。名前もお互い呼び合ってたな……なんだっけ?あー、もう忘れた。
ラノベも読むしアニメも見る、ゲームもよくプレイする。だから、そういうものに無意識に影響された可能性はあるだろう。
とりあえずパジャマを着替えなければとボタンを外したところで、勢いよく部屋のドアが開いた。
「あ、ミノル!今日のお弁当だけど……」
「ぎゃああああ!?」
思わず悲鳴。ついつい反射的に胸を隠すようなしぐさをしてしまう。
「母さん!ドア開ける時はノック!ノックして!!着替えてるとこ!!」
「何よ今更。あたしはあんたのオムツも換えてるのよ?どうってことないじゃない」
「男子高校生!思春期!ちょっとは遠慮して!」
「おっぱい見られたっていいでしょ、女の子じゃあるまいし。もっと言えばパンツだって」
「もおおお!!」
相変わらず、遠慮のえの字もない母親である。いつも通りすぎるやり取り。そのせいで、さっきまで考えていたことが全部吹き飛んでしまった。
自分は一倉ミノル。十八歳の、どこにでもいる普通の高校三年生。サッカー部を引退して以来、ちょっと腐ってるだけの寂しい受験生でしかない。
この時は、そう思っていた。
まさかあんな未来が待っているなんて、まったく夢にも思わずに。