朝のホームルームが始まる寸前だったので、記憶を読み取るのは放課後にしようと決めた。由良理と二人で教室に戻る際、周囲の学生たちが由良理のことを睨みつけているのが気に掛かったが、由良理は気にする素振りすら見せていなかったので僕も気づかない振りをした。教室に戻ると、僕は由良理に席を教えてもらう。
「サキ、おやすみ」
ホームルームが始まると同時に由良理は居眠りを開始した。結った前髪を見ていると、前の席に座る咲也が椅子を引いて話し掛けてくる。
「何か進展はあったかい?」
「……いや」
別の意味でいえば、大きな進展があったといえよう。しかしそのことを咲也に教える義務はない。僕は首を振って咲也の問いに答える。
「時間がなかったから、放課後に記憶を読んでくれるって」
「そうか、それなら昼休みは空いてるね? 他の才能者に会いに行くことにしよう」
「誰のことだ?」
「天馬羅衣音。僕らより一つ年上の先輩で、副生徒会長の職についている切れ者さ」
咲也は微笑を浮かべる。由良理が他人の記憶の断片を視ることのできる才能を持っていることには相当驚かされたが、きっと天馬羅衣音も僕のことを驚かせてくれるような才能の持ち主に違いない。
午前の授業中、僕はクラスメイトを筆頭に学院中の学生たちから注目の的として視線を集めていた。僕が過去の記憶を欠落してしまったことは、一時間目の授業が終わるころには中等部を含めて学院全体に知れ渡ったようで、僕が今現在どのような状態にあるのか興味を持った人たちが、一年四組の教室の前に集まっている。しかしこれほど沢山の学生たちが集まってきているにも関わらず、僕に話し掛けてくるのは由良理と咲也の二人のみ。それがまた、妙な違和感を覚えさせていた。
さて、由良理に関してわかったことは二つある。一つは、僕にベタ惚れしているということ。これは慢心しているとかそういうわけでもなく、周囲の学生たちも認知しているほどの関係のようだ。咲也の話によれば、僕と由良理は付き合っていたらしく、僕にべたつく行為を黙認されているみたいだった。でもそこら中に女子学生たちの殺気が溢れかえっているのは、僕としては落ち着かなくなる。由良理はまったく気にしていないようだけど。
もう一つは、惰眠を貪るのが好きだということか。授業が始まると同時に寝て、授業が終わると同時に目覚める。寝顔は天使のように可愛いし、いびきも掻かないので、他の人の迷惑になるようなことはないのだが、授業中に堂々と惰眠を貪る行為に対し、教師は頭が痛いご様子だ。何度注意されても起きない由良理だが、チャイムが鳴ればすぐに起き上がる。試しに僕が授業中に声を掛けてみたら、すぐに目を覚ました。そして僕の顔を見つめてにっこりと微笑む。僕の声にだけは反応してくれるらしい。
午前の授業が終わると、由良理は机に伏していた顔を上げ、大きな欠伸をする。授業で換算して四コマ分の惰眠を貪ったというのに、それでもまだ寝たりないのだろう。
目じりに涙を溜めて「ふわわー」と声を上げる。まあ、可愛いから構わないけど。
「ん? どこ行くと」
席を立ち、教室から出ようとする僕を見やり、由良理が声を掛けてくる。
「ちょっと……トイレまで」
僕は嘘をつき、この場をやり過ごそうとする。しかし由良理は緩慢な動作で席を立つと、僕の制服の裾を掴んだ。
「うちも行く」
僕はこれから咲也と一緒に天馬羅衣音に会いに行かなければならない。できることならば、由良理を同伴するのは避けたいところだ。咲也も言っていたが、僕が才能を開花させた五人の女の子たちは独占欲が強く、僕に近づく全ての存在を排除したがるらしい。
「いや、男子トイレだからそれは無理かな」
少しばかりの突っ込みを入れて、制服の裾を掴む由良理の手をやんわりと拒否してみせる。昼休みの間だけでも大人しく待っていてほしいものだ。
「うー、じゃあ待っとく……」
由良理は聞き分けがいいとは言いがたいが、とりあえずこの場は丸く収まりそうだ。しかし僕の耳元に口を近づけると由良理はそっと呟く。その代わり後でキスして、と。
「約束するよ」
由良理は「でへへ」とだらしなく笑い、恥ずかしげに頭を掻いた。由良理に手を振って別れを告げると、僕は咲也について教室の外に出た。学校の廊下は、直線距離にして五十メートルほどの長さを誇っているので、短距離走の練習にはもってこいだろう。
「生徒会室は四階さ。あまり無礼のないように。天馬羅衣音は気性が激しいから、怒らせると大変だからねえ」
そんなことを言われると、余計心配になってくる。しかしまだ会ったことすらないので、多少の緊張感はもっていたとしても損することもないだろう。
無言で頷き、咲也と並んで廊下を進み、階段を上って再び廊下に出る。そして角を曲ったところで、僕は何かにぶつかった。
「きゃっ!?」
僕にぶつかったのは女の子だ。女の子はその場に倒れこみ、尻餅をついてしまった。手に持っていたらしきプリントの束が床に散乱した。
「ああっ、ごめん……」
慌ててプリントを拾う。咲也はクスクスと笑みを浮かべて僕と女の子の様子を見下ろしている。尻餅をついた女の子は僕と咲也の顔を目にするなり、頬を真っ赤に染めてしまう。
「大丈夫? 怪我とかしてない?」
「だ、だいじょうううぶです……」
言葉が伸びて聞き取りづらかったけど、あえて聞き流す。いまだ尻餅をつく女の子に手を貸すと、恥ずかしがりつつも僕の手を取ってゆっくりと起き上がる。かき集めたプリントを女の子に渡して、もう一度謝る。
「あ、あの、あのあの……、咲崎琉来さん、です、よね……?」
一度、咲也のことを視界にとらえ、そしてすぐに視線を僕に戻す。僕の表情を窺うような目を向け、女の子はオドオドと問いかけてきた。
「うん、そうだよ。もしかして……」
僕の知り合い? と聞こうとして、それが失礼に当たるのではないかと考えた。僕は出掛かった言葉を呑み込んだ。
いや、僕が記憶喪失になっていることはすでに学院中に知れ渡っているのだから失礼ではないのだろうけど、それでも僕が彼女のことを忘れているということは事実であって、それで彼女が傷つくのは心もとない。
「わ、わたし……秋十重(あきとえ)阿栖葉(あすば)と言います。咲崎さんが記憶喪失になった噂が流れているんですけど……それ、本当なんですか?」
女の子の名前は、秋十重阿栖葉というらしい。彼女の自己紹介から察するに、僕と彼女は面識がなかったようで少し安心した。それに秋十重阿栖葉という名前は、咲也から教えてもらった才能を開花させている五人の女の子の名前とは異なる。彼女は才能を持っていないということだ。現に僕の横に立つ咲也は、彼女に興味を示そうとしない。まあ、それはそれで不気味な感じがするけど。
「うん、一応ね」
顔を引きつらせて肯定の返事をすると、阿栖葉は驚愕の表情を浮かべた。最初から知っていたのだから、驚くほどのことでもないのだろうに。
「あの、力になれることがあったら、何でも言ってください。わたし、一年三組だから、咲崎さんの四組とは隣のクラスなので……」
阿栖葉は、顔を俯けながら僕の力になると言ってくれた。その気持ちは嬉しいのだが、才能を持たない人間には僕の記憶を取り戻すことは難しいだろう。気持ちだけ受け取っておくことにしよう。
「ありがとう、阿栖葉さん」
すでに咲也は歩き始めていたので、僕はお辞儀をすると、咲也の背中を追った。
廊下を突き進み、ようやく生徒会室のドアの前に到着する。僕が咲也の横顔を見やると、それに気づいた咲也がククッと喉を鳴らした。ノックをするのは僕の役目らしい。咲也は案内人の役を買って出ただけか。深呼吸をして、息遣いを整え、静かにドアをノックする。
「……」
返事がない。
「留守のようだねえ」
由良理に嘘をついてまで足を運んだ挙句に、いませんでした、で終わってしまったらしい。それならば、僕は羅衣音が何組に所属しているのか咲也に質問をしてみる。しかし、
「興味がないからわからないな」
返ってきたのは予想を裏切らない言葉だった。
結局、僕と咲也は羅衣音に会うのを諦めて教室に戻ることにした。由良理の待つ教室へ戻ってみると、そこに由良理の姿はない。どこに行ったのやら。
「そうだ……琉来、ちょっと暇を潰さないかい?」
「暇を潰す?」
自分の席に着いて由良理の帰りを待っていると、咲也が声を掛けてくる。反問する僕に咲也は「ああ、そうさ」と呟き、ついてくるように手招きする。そして連れて行かれた場所こそ、立ち入り禁止の札が掛かった屋上というわけだ。
「この場所は僕のお気に入りでね。退屈な時間を過ごすに相応しい雰囲気だろう? 琉来、キミも気に入ったか?」
咲也はフェンスに寄りかかり、楽しそうに口を動かす。
「立ち入り禁止の札が掛かっていたけど、入っても大丈夫なのか?」
「ああ、あれは僕が掛けた。だから気にする必要はないさ」
それはそれで問題になると思うのだが、咲也はこの空間を独り占めしたいから内緒にしておいてほしいと言った。確かにこの場所は暇を潰すには丁度いいと思う。木々に覆われているので、日差しが直接照りつける心配もない。
ひんやりとしたコンクリートの床に寝転がり、木陰でのんびりと休むのはなかなか居心地がいいことだろう。欠点は、床が固いということくらいか。
「琉来、僕は所用がある。すぐに戻ってくるから、ここで待っていてくれ」
横になった僕を見下ろし、咲也が口を開く。何の用事があるのか気になるところだが、聞いたところで教えてくれないだろう。咲也は意地悪な性格をしているから。
「わかった。僕は昼寝しておくよ」
午前の授業を終えるころにはへとへとになっていた。昼食も食べていない。とにかく今は疲れを癒したかった。咲也は校舎内へと続くドアの中に消える。その姿を見送った後、僕は浅い眠りにつくことになる。そしてあの夢――僕と由良理の夢を見た。
放課後になると、由良理は僕の手に腕を回し、べったりと抱きつく形で校舎裏へと足を進めた。咲也はいない。今回もまた用事があるからと言い残し教室から出て行ってしまった。先に帰っていてくれと言われたので、用事というのは時間の掛かるものらしい。それとなく尋ねてみたが、やはり教えてはくれなかった。
「キス、忘れんでね?」
「わかってるよ」
人気のない校舎裏へ到着。暗がりには慣れているので恐くないが、どこか寒々しい雰囲気だ。太陽も沈みつつあるので、こちらも用事は早く済ませた方が良さそうだ。
「それじゃあ、由良理……お願いするよ」
「うん! お願いされちゃったから頑張る!」
由良理は腕を捲くる。才能を行使するのに、腕を捲くる必要があるのかどうか僕にはわからないが、彼女の気合は十分らしい。
ふいに、由良理の目つきが真剣なものに変わった。一歩、僕に近づく。僕と由良理の顔は目と鼻の先だ。今から僕の記憶を読み取る作業が始まる。僕は緊張して唾を飲み込むが、由良理の反応は意外なものだった。
「緊張しとるサキの顔もかっこよかね……」
「へっ?」
ふにゃり、と顔を緩ませた由良理は、僕の顔を見つめてウットリとしていた。先ほどまでの緊張を身にまとった雰囲気はどこに消え去ってしまったのやら。張り詰めていたものが、由良理の一言で全て無くなった。
「そげん緊張せんでよかよ。うちの才能は、対象者にちょこっと触れるだけで記憶ば読み取ることができるけん。痛くも痛くもなか」
「あ、ああ……」
痛くも痒くもないの間違いだが、彼女がわざと言ったのかどうか真偽を確かめるすべはないので頷くだけに留めておく。そして由良理は、そっと手を差し出す。僕がその手を握ると、由良理は口元に笑みを浮かべたまま目を閉じる。恐らくは、僕の記憶を読み取っている最中なのだろう。僕は由良理が才能を行使し終えるまで待ち続けた。由良理は僕の記憶を読み取り続ける。校舎裏に流れるのは、ほんの少しばかりの静寂――
「サキ」
僕の記憶を読み取り始めた由良理は、急に表情を曇らせる。僕の過去の記憶に、何か重大な秘密があったのだろうか。先ほどとは違った意味で、空気の流れが変わったような気がした。それに伴い、僕は再び緊張する。由良理の告げる言葉を一言一句聞き逃さないように耳を欹てる。由良理は目蓋を開けて僕を見る。そして、
「なんで……うちの胸ば見て、興味なさそうに目ば逸らしたと?」
「……む、胸?」
由良理の言葉の意味がわからず、僕は反問した。
すると由良理は、繋いでいない方の手を握り締める。
「うちが視たサキの記憶の断片は、うちの胸ば見ても恥ずかしそうじゃなか……」
「あ」
あのとき、由良理の制服の胸元から、ぺったんこな胸が見えてしまったことを僕はようやく思い出した。下着をつける必要すらないのではと思えるほど平らな胸は、興奮をそそるようなものではなく、むしろ由良理の笑顔を見ていた方がいいと感じた瞬間だった。
「ぺ、ぺったんこも魅力のうちのひとつばいっ!!」
「はぐっ!?」
刹那の出来事だ。空間を切るほどに鋭いアッパーカットが僕の顎に直撃する。
「うちだって……胸が小さいこと気にしとるとよ!」
どうやら僕は、視られたくない記憶の断片を読まれてしまったらしい。そういえば由良理が僕に抱きついてきたとき、制服の胸元を見たような気もする。しかしその記憶を指摘されるとは思ってもみなかった。
「う、いや、その……小さいのも魅力的だと思うぞ?」
「うっさかとっ!!」
今度は左フックが鳩尾に炸裂する。相手を仕留める殺人パンチ、どこで習ってきたのか教えてほしいものだ。校舎裏に響き渡る怒声の主は由良理で、その対象となるのは僕。もちろん、とめてくれる人はいない。
よろよろと地面に片膝をついた姿勢を取る僕の頭に由良理の連打が飛び続ける。ポカスカと景気のいい音を奏でてくれるじゃないか。息を荒げて僕のことを殴る由良理は、殴り疲れてしまったのだろう。三十秒も持たないうちに拳は飛んでこなくなり、その代わりといってはなんだけど、舌を出してあっかんべーをされた。
「キス百回の刑に処するけんね?」
それはそれで嬉しいような気もするけど、今は他に聞かなくてはならないことがある。僕の過去の記憶についてだ。
「それで……肝心の過去の記憶についてだけど、何かわかったか?」
「んん? ぜんぜんわからんかった」
首を大きく横に振る。大げさすぎる素振りに少しばかり違和感があるのは、由良理が嘘をついているかもしれないと感じてしまったからだろう。彼女は僕の記憶を取り戻したくないと言っていた。もし、その気持ちが由良理に嘘をつかせているのであれば、今の僕にはどうすることもできない。僕は由良理の嘘を見破るすべを持ち合わせてなどいないし、今の僕は他人の才能を開花する方法すら忘れてしまった、ただの無才能者なのだ。
「そう、か……」
溜息をつく。それを見た由良理は慌てて僕に寄り添う。
「うち、嘘ついとらんよ? ホントに読めんかった! サキの記憶、昨日までの記憶しかたなかったもん……」
僕の心を察したのだろうか、由良理は澄んだ瞳を僕に向け、言葉を投げかける。
「……」
その表情を見て僕は苦笑する。由良理が嘘をつくはずがない。由良理は僕のことを信じてくれているのだから、僕も彼女のことを信じてあげなければならない。それなのに僕は、由良理のことを疑ってしまった。僕自身を呪いたい気分だ。
「ごめん」
「な、なんでサキが謝っと? 役に立たんかったとはうちばい……?」
由良理は僕のために、僕の記憶を取り戻すために、才能を行使してくれた。今の僕のままでいいと告げた由良理は、僕のわがままに付き合ってくれたんだ。悪いのは信用することのできなかった僕の方だ。
僕は由良理の身体を抱き寄せ、唇を重ねる。それは今日、三度目のキスだった。