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 耳元で鳴り響く不快な音は、僕の携帯から発せられるアラーム音だった。

「……うぅ」

 つい先ほどまで広がっていたはずの真っ暗な世界はいつの間にか姿を消し、その代わり目蓋を開いてその瞳に映し出す視界を与えることで、光ある世界が姿を現す。気分を鬱々とさせてくれる眩しい陽の光は、いつもと変わらずに僕のことを明るく照らしていた。

 どうやら僕は夢を見ていたようだ。夢で見た真っ暗な世界には三人の登場人物がいた。

 僕と由良理、そして僕と思考を共有しているもう一人の僕。その夢はきっと、昔の僕が経験したことのある出来事なのだろう。だけど今の僕には夢の中で体験した記憶の真偽を確かめるすべはない。何故ならば――

「おや、起きたようだね?」

 不意に、後ろから声を掛けられた。身体を捻って後ろを振り向くと、そこには僕と同じくらいの身長と体格をした男が佇んでいた。

 僕がいる場所は神楽坂学院の高等部校舎の屋上だ。時は昼休み、午前中に負った疲れを癒すために手ごろな場所があると彼に教えられ、連れてこられた。

「……咲也(さくや)か? いつからそこにいたんだよ」

「キミが寝てから、ずっとさ」

 僕は彼の名を咲也と呼んだ。

 屋上は確かに、ゆっくりと休むには打ってつけの空間だった。錆付いたドアには立ち入り禁止の札が掛かっているので、僕と咲也以外の訪問者の姿は見えない。

 神楽坂学院は広大な丘を背景にして建てられているので、眺める景色が感動的な気分を誘ってくれるようなことはない。屋上を覆い隠すように木々が連なり、陽の光を遮る役割を果たしている。木漏れ日に照らされ全身を包み込まれるようにして佇む咲也は、コンクリートの床に寝転がる僕を見下ろし、シニカルな笑みを浮かべていた。

「寝心地はどうかな?」

 僕は上体を起こすと、咲也の問いかけに対して首を横に振って反応する。

「最悪だね。疲れを取るどころか、逆に身体の節々が痛くなるよ」

 人の気配に気を配ることなくのんびりと昼寝することができるという点において、屋上に優る場所は存在しない。

 但しこの場所にも欠点がある。それはコンクリートの上に、直に寝転がらなければならないことだ。今度来るときは枕を持参することにしよう。

「あっはっは、それは悪いことをしたねえ。今度は枕でも用意しておくよ」

「……」

 僕の思考を読み取るかの如く、咲也は返事をする。

 それにしても、夢の中の僕は随分と腹黒い性格をしていた。由良理のことを下等な存在だと見下し、ぞんざいに扱い、心の中では彼女のことを蔑む台詞を吐きつづける。たとえそれが僕自身なのだとしても、嫌悪感を抱かざるをえない。

「ところで、午前中の感想でも聞かせてくれないかな?」

 咲也は僕の隣に座り込むと、風に揺らめく木々を眺めながら質問した。

「疲れたに決まってるだろ」

 疲労が溜まったのだろう。僕が僕自身のことを取り戻すためには、努力を惜しむことなどできない。しかしその勢いも、午前の授業を終えるころにはやる気を見出すことさえできなくなってしまうほどに疲れていた。神楽坂学院において、僕がどのような存在として地位を確立していたのか。そのことについて僕はあらかじめ咲也から説明されてはいたものの、それを鵜呑みにすることができなかったのは大きな失態だった。これからはもう少しだけ気をつけて行動しなければならないだろう。

「はあ……。記憶さえ取り戻せば、こんなに苦労することもないんだろうな……」

 言い忘れていたわけではないが、言いそびれてしまったことは謝ろう。

 僕は記憶喪失だ。何故、記憶を喪失してしまったのか。それがわかれば苦労はしない。


     ※


 あの日、僕は何もかも忘れてしまっていた。僕が今どこにいるのか、そして僕が誰なのか、全ての記憶が喪失していたんだ。そのことを自覚したときの落胆は、計り知れないものだった。でも、それでも僕は、僕自身の欠落した記憶を取り戻すため、薄闇に包まれた部屋から出ることを決めた。こうなることを予想していたのだろう。部屋の外にはシニカルな笑みを作る咲也の姿があった。

『キミの記憶を取り戻すには、才能を取り戻す必要がある』

 意味がわからなかった。けれど身体は正直だ。咲也が口にした言葉の意味に気づいているのか、胸の鼓動は急激に高鳴り始め、それを待ち望んでいるように思えた。

『才能を取り戻す……?』

 僕は眉根をよせる。しかしながら咲也は、僕が疑問を浮かべることを知っていたのだろう。ゆっくりとした口調で、ひどく楽しそうに唇を動かす。

『ああ、そうさ。キミは他人の才能を開花させる才能を持っていた。キミはおそらく、他人の才能を開花しすぎたのだろうね。人の脳を弄り、才能を開花させるということはつまり、キミの人格にも影響を与えていくだろうし、キミ自身の脳を崩壊させる危険性もある。それが結果として、記憶喪失といった形で現れてしまったのだろう』

 やはり僕には、咲也の言っていることが理解できなかった。

『わからなくてもいい。……そう、それは当然のことだからね。キミはまだ何も知らなくていいのさ。だってそうだろう? キミは記憶を失っているのだから、才能を開花させるということが何を意味しているのか気づいていないのだからね』

 一歩、僕に近づく。咲也の表情は、晴れ晴れとしていた。しかしその表情の裏には、何か得体の知れない恐怖を持ち合わせているようにも見える。

『そうそう……、記憶を失う前の話になるが、キミは過去に五人の女の子の才能を開花させている』

『五人の、女の子……?』

『才能を開花させた彼女たちは、キミのことを狂おしいほどに敬愛している。凡人とは異なる、天才たる才能を持ち合わせた彼女たちの協力を得れば、きっとキミの欠落した記憶も取り戻すことができるはずさ』

 咲也は、僕が過去に才能を開花させた女の子たちの名前を教えてくれた。

 御剣(みつるぎ)由良理(ゆらり)。

 時津(とぎつ)佐屋(さや)。

 手妻(てづま)葵(あおい)。

 琴倉(ことくら)千歳(ちとせ)。

 天馬(てんま)羅衣音(らいね)。

 これが、才能を持つ彼女たちの名前。

『それともう一つ、キミの名前は咲崎(さきざき)琉来(るき)。この屋敷の主さ。憶えておくといい』

 そのとき僕は、咲也の口元が醜く歪んでいたのを見逃さなかった。


     ※


 夢の中の出来事は所詮夢でしかない。けれどあの夢はどこか懐かしい雰囲気を漂わせていた。記憶を欠落した僕でさえ懐かしいと感じたのだから、それはおそらく、記憶喪失になる前の僕であれば、すぐにその場面を思い出すことができたはずだ。

「……はあ」

 小さな溜息をつく。僕は自分のことが嫌いになりそうだ。

 昔の僕は、夢の中の僕と同じような性格をしていたのだろうか。もしそうだとすれば、僕は欠落した記憶を取り戻すことに抵抗を感じてしまう。世の中には知らない方がいいことだって沢山ある。それこそ、星の数に匹敵するほど存在するはずだ。その内の一つとして欠落した記憶が挙げられるのだとすれば、僕は迷う。

 記憶を取り戻した後、僕はまた由良理のことを蔑んでしまうのだろうか。

「疲れるのも仕方ないさ」

 咲也はわかったような口を利く。それが自然であり、何の違和も感じないのが咲也の不思議なところだ。咲也と僕は、似ているのかもしれない。

「そうだよな……」

 僕は才能者であり、無才能者でもある。

 他人の才能を開花させることができるが、自分の才能を開花させることはできないのだと咲也から聞いた。昔の僕は、決して自らの脳を弄るようなことはせず、他人の才能を開花させるだけに留めておいた。確かに自分自身の脳を弄っている最中に手元が狂いでもすれば、どのような事態を招くことになるか予測することができない。しかし結局は、他人の才能を開花しすぎたせいで、記憶喪失になっている。昔の僕も完璧ではなかったということだ。

「今ある現実を、しっかりと受け止める。それが僕に残された唯一の手段か……」

 今朝方、僕は咲也と一緒に神楽坂学院に登校した。学校まで続く長い道のりを歩いている間中感じていたことだが、周囲の空気を察するに、僕が特別視されていることに薄々勘付いていた。通学路を行く学生たちは、僕の姿を視界に捉えると同時に尊敬のこもった眼差しで見つめ、気づけば僕と咲也の後ろには大勢の学生が規則正しい列を成していた。神楽坂学院の正門に辿り着く前の段階でこの調子なのだから、校内に入ってからの異常さには驚きを隠せなかった。

「人気者を演じるのは大変だねえ……」

 別に演じているつもりなどない。僕は記憶を欠落しているから、過去の僕がどのような存在だったのか知りえない。僕が僕のことを知るには、僕の過去を知る人物に出逢い、直接話を聞くしか方法はない。過去の自分を演じるのであれば、それは記憶を取り戻した後になるだろう。しかしそれも不安に感じている。

「咲也……僕は、記憶を取り戻した方がいいのかな」

 記憶を失ってから半日が経過したが、僕は自分のことが嫌いになりかけていた。過去の記憶を取り戻すということに対して抵抗を感じ始めているということだ。

 記憶喪失になってしまった直後の僕は、形容しがたい恐怖感に襲われていた。過去の自分を知りたいという欲望に忠実で、飢餓に飢えた人間のように絶望もした。だけど今の僕は、それとはまた異なる意味で、絶望しかけている。

 件の例もあるように、僕が喪失してしまった記憶を取り戻した後、僕の態度がどのように変化するのか僕自身にも想像することができない。腹黒い性格をしていた過去の姿に対し、記憶を取り戻した後の抑制が可能なのだろうか。由良理のことを裏切ったり、不安にさせたりするようなことだけはしたくない。

「琉来、それは愚問だよ。キミは記憶を取り戻さなければ本当の自分を知ることができないんだ。初めからキミの採るべき行動は決まっているんだよ?」

「……それは、わかってる」

 そうだ、わかっているつもりだ。

 そんなことは言われなくても理解している。だけど事実と向き合うということがどれほどまでに辛く、苦痛を味合わなければならないのかということについて、咲也は無関心なんだ。咲也は僕じゃないのだから、理解する必要などない。記憶を取り戻した後、僕がどのようになろうが構わないということだ。僕は自らの持ちえる記憶に希望を失いつつ、緩慢な動作でフラフラと立ち上がる。心地の良い春風に前髪をなびかせ、ゆっくりと深呼吸をしてみた。軽い立ち眩みに耐えて、目を瞬かせる。

「おや、どこに行くんだい?」

 校内へ続くドアを開いたところで咲也に声を掛けられ、僕は後ろを振り向く。

「由良理に会いに行く」

「なるほどなるほど、琉来は彼女のことがお気に召したようだね」

 喉を鳴らして笑う咲也を無視して、僕は校舎の中へ入った。

 どちらかといえば、咲也はそばにいない方が安心する。彼は過去の僕と同類のような気がするけど、それがそのまま気の合う存在へと繋がるわけではないし、信頼を得られるような人間ではないことだって理解している。僕の心を見透かしているような笑みを向けられると、どうにも落ち着かなくなる。

 咲也は僕の過去について知っているけど、それを素直に教えるようなことはしない。それが少しだけ不満だ。けれども頼りになるのは咲也だけじゃない。

「……さて、と」

 神楽坂学院内ならば僕の味方は多々存在する。それは午前の授業が終わるまでに僕自身が実感したことだ。

 そうさ、咲也は僕に五人の女の子の名前を教えてくれた。

 彼女たちは才能を開花している。その才能というものが何を意味するのか、僕にはまだいまいち理解することができないが、咲也の告げたことは全てが真実であり、過去の記憶を取り戻す上で必要不可欠なものであると言っていた。

 螺旋階段を下り続け、階下へと歩を進めていく。二階まで下りたところで、今度は長ったらしい廊下をひたすらに突き進む。その途中、多くの学生たちが僕に向かって好奇の視線をぶつけてくる。その視線に慣れるにはまだまだ時間が掛かりそうだ。

 神楽坂学院の敷地内には、中等部校舎と高等部校舎が連なる形で建てられている。僕と咲也、そして由良理は現在十五歳。高校一年生なので、高等部の校舎を学び舎として利用している。中等部校舎と高等部校舎には二階と四階に渡り廊下が設置されているため、互いの校舎内を行き来することも可能だ。過去に僕が才能を開花させた女の子の中には、中等部に在籍している子もいるので、その点に関していえば会いに行きやすいので助かる。

「ん……?」

 廊下の角を曲ると、一年四組の教室が見えた。教室の壁にもたれ掛る女の子の姿を視界に捉え、僕の口元には自然な笑みが浮かぶ。御剣由良理だ。彼女も僕に気づき、曇っていた表情を一変させた。僕が教室に辿り着く前に由良理は僕の許へ駆け寄ってくる。

「サキ、今までどこ行っとったと?」

「屋上で昼寝してきたんだ」

 先ほどまでの退屈そうな表情からは想像もできないような輝きを瞳から放ち、その全てを僕に浴びせる。目を合わせているだけで幸せな気持ちになるというのは、今の僕にとって由良理が大切な存在だということに繋がる。

「昼休みの間、サキのことばずっと捜しとったと。屋上は立ち入り禁止の札が掛かっとったけん入らんかったけど……」

 それは悪いことをしてしまったようだ。由良理に心配を掛けるのは僕としても避けたい。由良理の表情が揺らぐのは見たくないし、由良理には笑顔が一番似合う。

「もうすぐ授業が始まるけん、早く教室に入ろ?」

 由良理に手を引かれ、僕は教室へと足を踏み入れる。クラスメイトの視線が僕と由良理を繋ぐ手元へと集中しているのがよくわかる。その内の半数、女子学生たちが由良理に嫉妬の感情を含む視線をぶつけているように見えた。

 僕は窓際の一番後ろの席に腰を下ろし、窓の外に広がる景色を眺める。運が良いことに、四組の窓から見える景色は神楽坂の街並みを一望することが可能だった。午後の授業が終わったら、今度は中等部にも顔を見せることにしよう。羅衣音は生徒会の仕事が忙しいみたいで、まだ顔を見ていない。……いや、すでに廊下ですれ違っているかもしれないな。

 僕が才能を開花させた五人の女の子の中、中等部に在籍しているのは佐屋と葵、そして千歳の三人だ。羅衣音だけではなく、彼女たちの顔も知らないので、由良理についてきてもらうことになるだろう。女の子に会いに行くと言って大人しくついてきてくれるかどうか、ほんの少しだけ心配だ。

「彼女と何を話したんだい?」

 ぼんやりと窓の外を眺めていると、咲也が話し掛けてきた。どうやら屋上から戻ってきたらしい。咲也の台詞に、僕はなんでもないと答え、すぐに視線を逸らした。

 咲也の席は、僕の席の一つ前だ。因みに由良理の席は僕の隣で、僕の事情を知りうる人間が近くにいるというのは安心する。僕の記憶を取り戻す件を考慮した上でも、この状態は何かと都合がいい。咲也は裏で何を考えているのかわからないので、絶対的な信頼を置くことはできそうにないけど、それでもやはり僕のそばに咲也がいるのといないのとでは大きな差が生まれることだろう。

「そろそろ始まるみたいだねえ」

 予鈴が鳴り、咲也が呟く。ざわついていた雰囲気も穏やかなものへと変わった。教師が教室に入り教壇に立つと同時に、咲也は「起立、礼、着席」の号令を掛ける。

 午後の授業が始まれば、教室には抗辯を垂れる教師の声だけが響く。そんな中、僕は授業を聞き流し、由良理の横顔を覗き見る。授業開始一分と経たないうちに、彼女は舟を漕いでいた。結った前髪が左右に揺れ動いている。

「御剣……由良理か……」

 そっと彼女の名前を呼んでみる。

 由良理は、僕の力になってくれることを約束した。僕が記憶を喪失していることを知った彼女は、まるで自分のことのように哀しんでくれたし、その優しさに触れることができたのは、今の僕からすれば心のより所を見つけたようなものだ。

 僕の記憶を取り戻すことで、由良理の哀しみを消し去ることができるのであれば、僕は迷わず記憶を取り戻すだろう。たとえ今の僕と過去の僕が相反した感情を持っていたのだとしても、受け入れることを拒否するわけがない。

 ほんの数時間前に出逢った彼女に惹かれつつある僕は、そのときのことを思い返してみる。それはひどく衝撃的であり、昔の僕ではなく今の僕が由良理に対して感じた素直な印象を決定づける出逢いでもあった。

「……ありがとな、由良理」

 小声で呟き、僕は由良理の幸せそうな寝顔を見つめる。願わくは、彼女が僕だけに見せてくれる柔らかな笑みを見続けることができますように――


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