そして残りの期間をなんとか乗り切り、村瀬は特に送別会もなくひっそりと会社を辞めた。いや、実は一部の同僚からは餞別にと菓子を貰い、『猫の下僕』の同僚からは可愛らしい猫用の首輪を貰ったのだけども。
家に帰り、久々に発泡酒を開けてユキジとベッドにもたれて座ると村瀬は言う。
「意外と……なんでもないことだったんだな。今まで捨てられることが怖くてしょうがなくてさ。だから酷い扱いされても……会社から『いらない』と言われないように我慢してきてたのに。いざ今日になってみれば呆気ないし……つらくもない。自分から辞めたのもあるのかもしれないけど、でもきっと、ユキジが私のそばにいるからだな」
「俺が?」
「そう。ユキジが真っ直ぐに私を必要だと、ずっと一緒にいると言ってくれる……だから、抜けることができたんだと思う」
「だってタカオと約束したからね」
何を当たり前のことを言ってるの? とでも言いたげにユキジは村瀬の肩に頭を乗せて上目遣いに見てくる。それでもだ、と村瀬はユキジを撫でた。
◇◇◇
少し二人でゆっくりする期間を置いたあと、村瀬はすぐに決まった次の仕事を覚えようと必死だった。とはいえ、パワハラモラハラなどはなく、最初は定時で帰るようにと言われているので時間に余裕がある。
この仕事は、
どこから情報を得たのか知らないが、村瀬が辞めて少ししたころに連絡があった。ビクビクしながら出てみれば「やっと踏み出せたんだな」と嬉しそうに話し、今ちょうど縁のある会社で人を探していると紹介してくれたのだ。「お前は真面目だし丁寧で、自分でわかってなさそうだけど仕事もできる。だからちょうどいいと思う」と言われ、村瀬は最初はいつもの遠慮精神が出そうになったが、ユキジを困らせたくないと一念発起して彼に面談をセッティングしてもらった。
働いてみれば……前職場に比べたらよっぽど楽に感じるし、色々な業務をこなせる村瀬を先方も気に入ってくれた。給料も上がり、今後残業があれば残業代もちゃんと満額出るというので、今までと比べてそれだけでも衝撃的だ。
そして、実はユキジもアルバイトに出ている。職場はあの動物病院だ。ユキジの正体を知ってる先生が上手くカバーしてくれつつ、動物の言葉や状態がわかるユキジもしっかり活躍できていると聞く。いわゆるアシスタントというやつだ。
しかも先生には文字や計算なども教わっているとか。仲が悪そうだったのはなんだったんだと、村瀬が少しもやもやするくらいには一緒にいるようだ。
「それでね、そのときそのチワワの子が先生に――」
「……そうか……」
「タカオ?」
「その……ユキジは、最近先生の話ばかりで…………仲が良さそうだね……」
村瀬の言葉にユキジは目を丸くして、ぴょこんと飛び跳ねると急に胸を抑えてうずくまる。目の前でユキジが突然胸を押さえるものだから、村瀬は何か病気ではと心配になった。焦りまくって「痛いのか? 大丈夫なのか?」と言いながら、ユキジの前にしゃがみこんで背中をさする。
「タカオが……タカオが……ヤキモチ。どうしよう、嬉しい」
「へ?」
ユキジにヤキモチと言われて、改めて自分の言動を振り返り……村瀬はとたんにドキドキしてくる。
今までそういう意識をしたことがなかった村瀬は、自分の中に独占欲というものがあったことを初めて知って動揺した。「ち……違っ」と吃りまくっている村瀬に、飛びつくように抱きついたユキジはそのまま村瀬の頬と唇をぺろぺろと舐めてくる。
今までは『猫だったしな』と思えていたことが途端にそう思えなくなって、村瀬の顔が一気に赤くなってしまった。
「どうしよう、俺……もう我慢できないかも。ちゃんとタカオを待ってるつもりだったのに。……うう」
「ユキジ? 我慢ってなんだ? 具合悪いのか?」
「俺、タカオが欲しい。ちゃんと番いたい……うう」
「つが……って、ええ!?」
赤面したまま素っ頓狂な声をあげる村瀬に、ユキジは「俺、本当は最初からそう思ってたんだよ? 嫌?」と目を覗き込んできて心臓が止まりそうだ。いつもの真っ直ぐなキラキラした瞳に吸い込まれそうで……。
そういうの考えたこともなかったとゴニョゴニョ言う村瀬に、もう一度ユキジは「俺とそういうの嫌?」と聞く。
うっ……と言葉に詰まった村瀬だったが、しかし、しばしの無言の後ゆるりと首を振った。