その日、村瀬は気の抜けたような顔で帰宅してきた。
「ただいま」
「タカオ! おかえりー!」
いつものように抱きついて、すりすりと村瀬を出迎えるユキジは、なんとなくいつもと違う様子を感じ取ったのか目を瞬かせた。そして、じっと村瀬を見つめる。
ユキジは玄関先から村瀬を引っ張って一緒に部屋に入った。村瀬が着替え終わるのをじっと待っているのはユキジなりの気遣いだ。これは猫姿のときから変わらない。
「タカオ、どうしたの?」
「うん……仕事、一ヶ月後に辞めるって言ってきた。貧乏だけど積立解約すれば、数カ月暮らせるくらいはあるし……。もし、すぐ仕事が見つからなかったらアルバイトもする。本当は次が決まってから辞めるべきなんだろうけど……苦労かけたらごめん」
「そうなんだぁ! そしたら一緒に仕事しよ! タカオと一緒!」
全然気にした様子もなく嬉しそうに笑うユキジに救われる。
昼間は、あんな会社だからそれなりにすったもんだあったのだ。上司は村瀬に仕事を押し付けていた立場だったから、いなくなられると困ると思ったのか訳の分からない屁理屈を返してきた。少し揉めたからか周りに話が筒抜けだったようで、そこに助け舟を出してくれたのはあの猫の下僕の同僚だった。
猫の話題で時々話すようになった同僚が、ユキジのおかげで少し明るくなった村瀬をひっそり気にかけていてくれたのを、当の村瀬はわかっていなかったのだけれど。なんとか直属の上司の上まで退職希望が渡って受理されたのは彼のおかげだ。
「ほんと……ユキジには敵わないなぁ。でもな、きっと辞めるまでの一ヶ月は今まで以上に忙しいかもしれない。私がいろいろやらされていた仕事を引き継がなければならないんだ。日付が変わる前に帰ってこられるか……」
「今すぐ辞められないんだ……」
「ユキジ風に言うと『人間って面倒くさい』ものなんだよ。でもそれが終わったら、もっとユキジと一緒にいられる仕事を探すからね。少しだけ我慢してな」
そう言いながら村瀬がユキジを撫でると、ユキジは嬉しそうにされるがままになっていた。
それからは村瀬の言った通り、毎日の残業と休日出勤の連続だった。
ヘロヘロになって帰ってきて、翌朝もフラフラと仕事に行く村瀬をなんとも微妙な表情で見守るユキジ。心配する声をかけるものの村瀬から返ってくるのは「もう少しだけだから」という言葉のみだ。
ある土曜日、珍しく村瀬が夕方に帰ってくると玄関にへたり込んでしまった。ユキジが焦りながらもベッドに運ぶと、浅く呼吸をしていてかなり体温が高い。
ユキジもネコマタになるまでは体調を崩すこともあったが、野生動物というのはそういうときは動かず体力を温存させて自然治癒力に頼るものだった。
だからユキジには村瀬をどうしたらいいのかわからなくて泣きそうになる。
「く、薬……を、人間は必ず飲むんだよね? どこにあるの……タカオ……」
部屋をウロウロとしながら、困りきったユキジはどうにもならなくて外に出て走り出した。この道は何度も村瀬と通った道だ。そこを全速力で走る。
「待ってて、タカオ。俺……」
泣きそうなユキジはガラスの扉を開けて中に飛び込むと、大きな声で助けを求めた。
「先生! お願い、助けて!」
夕方の院内は患畜もわずかにいて、みんなが一斉にユキジを見る。そこに顔を覗かせたのは渋い顔の大先生で、「どうしたのかな?」と優しく声をかけられたが、知らない先生にユキジにはどう説明したらいいのかわからなかった。そこに焦りも加わってしまってユキジが震えていると、いつもの先生が騒ぎを聞きつけてひょこっと顔を出した。
「あっ! 先生ぇ……ひぐっ……タカオが……タカオが……」
見知った顔が現れたことで安心したユキジが涙目で訴えると、「まずは落ち着いて」と奥の部屋に案内してくれた。大先生には知り合いだからと説明して戻ってくると冷たい麦茶を出してくれる。
こんなもの飲んでる暇ないのにと思いつつも、喉がカラカラで話しにくかったユキジは一気に飲み干した。
「君は僕のことを嫌っていそうだと思っていたけど、どうしたの?」
「別に嫌いじゃない。タカオは渡せないってだけ。そうじゃなくて! お願い……タカオが……熱くて苦しそうなんだ。どうしたらいいのかわからない。助けて」
「村瀬さんが?」
「着いてきてくれる?」
そう言ってユキジは先生を急かして引きずっていった。
自宅に着くと、先生はユキジと一緒に村瀬をスーツから着替えさせてくれる。とりあえず二人を落ち着かせると、先生はスポーツドリンクや必要になりそうなものを買いに行ってくると出ていった。
「タカオ……大丈夫だよ。先生来てくれたからね。もう大丈夫だから」
グスグスと鼻をすすりながら村瀬のそばに座り込むユキジは、村瀬の手を握りながら声をかけた。