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12.知らないということ

 そんなユキジの様子を見て、先生は斜め上の方を見ながら頭を傾げていた。「失礼な態度を取ってすいません」などと村瀬が謝ると、いつもの優しげな笑みを浮かべて先生は言う。


「ケージやトイレを返しに来たってことは、まあそういうことなんですよね。でも村瀬さんは以前みたいな顔色でもないし……。そこの彼のおかげですか?」

「あの、その、えっと…………はい」

「そっか、残念。守ってあげたかったんだけどな。いえいえ、なんでもないですよ?」


 村瀬がキョトンとしている隣でユキジは警戒心丸出しだし、先生はいたずらのようによくわからないことを呟いている。


 どうやらあまり仲良くしたくないと言う割に、ユキジと先生の間には何かしらの共通項があるようで、村瀬にはよくわからない会話をしている。二人のやり取りにどことなく疎外感を感じてしまうが、言葉を挟んだり話題を変えたりすることのできない村瀬はぼーっと二人の様子を見ていた。


「簡単な料理のことは先生に感謝してる。でもタカオにちょっかいかけるのはだめだから。──あ、それと、待合室の観葉植物の横にいた子は早めに診てあげたほうがいい。ちょっと危ない」


 そう言うと、ユキジは村瀬を引っ張って「帰ろ」と止まらない。先生は待合を覗き込み、首をひねると村瀬たちに挨拶をしてユキジのいう子のところに歩いていった。


「ユキジ、あんな態度はだめだろう? お前の治療してくれた先生だぞ?」

「でも……。タカオは俺のものなのに。隙あらば狙おうとしてくるなんて」

「狙うって何を……」

「わからなくていいよ。タカオはずっと俺と一緒にいるんだもんね。ねえ、スーパー? に買い物に行こうよ。ご飯の材料何もないよ」


 あの先生は、自分の顔色がいいのはユキジのおかげかと聞いてきたけど、本当にその通りで、それもこうやってユキジが気にしてくれるからだなと村瀬は笑う。


 それなりの年数を生きて、人間の常識もまあまあ頭に入れているユキジ。でも、お金の数え方などはそこまで得意ではないらしくまだ買い物は一人で行かない。だからこうやって日曜日は二人で買い物をする日になっている。

 村瀬一人ならただひたすら寝る曜日だったのに、少しだけ健康的な休日になったのかもしれない。


「ね……タカオ、俺にも仕事できると思う?」


 家に帰ると急にユキジが質問してきた。どうしてだと村瀬が問えば、「タカオだけに『お金』を稼がせるのは嫌だから」と言う。気にしなくていいと村瀬が言ってもユキジは頑なだった。


「今もなんとかなっているのにどうしちゃったんだ? もっと人間の世界に馴染みたい?」

「……違う。だって、俺がお金を持ってこられたら、タカオはあの仕事に行かなくてもいいんでしょ?」


 悪い人間ばかりいる仕事に、タカオを送り出すのはツラいとユキジは泣きそうな顔で言う。村瀬はユキジを引き寄せて「心配かけてごめん」と呟いた。


 前までなら自分さえ何も考えずに我慢していれば、時は流れていったのに、自分が我慢すると苦しむ存在がいる。村瀬の心がピリピリと痛んだ。

 自分はユキジを大事にすると約束したのに、何もしないこと・・・・・・・でこんな風に苦しめていたなんて。


 毎日毎日キラキラとした目で自分を見つめて、大好きだと言ってくるユキジ。村瀬はその顔を思い出し、ユキジには自分のような死んだ目にはなってほしくないと思う。


 村瀬にとって何があるのかわからない全くの未知の世界は怖い。思えば施設に入った以降は学校ですら怖くてしょうがなかった。たとえ扱いが酷くて都合よく使われる状態だとしても、自分の知る世界にいたほうが今までは良かったのだ。でも……。


「ユキジは未知の世界は怖くないのか?」

「未知って?」

「知らない世界のことだよ。ユキジは働いたことなんてないだろう? 知らない人間もいるし、何をするのかもわからないじゃないか」

「いつもそうだったよ。怖いのはタカオがいないこと。だから今は幸せだし、タカオが苦しそうな顔してなければ俺はなんでも嬉しいし楽しい」


 そうだった……ユキジは何百キロも知らない土地を歩いて来たんじゃないかと村瀬はハッとして黙り込んだ。

 自分に置き換えてみると、なんという怖い世界をユキジは辿ってきたのだろうか。村瀬は引き寄せていたユキジの胸に今度は自分の頭をポスンとつけた。

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