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10.大事な存在

 やっと涙の止まった村瀬は、冷水でバシャバシャと顔を洗ってホッと一息ついた。泣くという行為はなんて体力を使うんだろうとぐったりする。独りになってからこんなにもエネルギーを使ったことは……それこそ最初のうちだけだったか。そんな村瀬の後ろから離れない人間姿のチビ。


「ねえ、タカオに一つお願いがあって。俺の新しい名前を決めてほしい。チビって小さいってことなんでしょ?」

「あ、確かにチビじゃな……」


 そう言ってもう一度まじまじと見る。

 目の前にいる男は、細マッチョと言える筋肉をまとっていて自分よりも少し上背があり、柔らかさと野性味もあるいい男だった。そして腹を見れば治療済みとはいえ痛々しい傷があるし、他にも古傷がいくつもある。


 そういえば裸のままじゃないかと、チビに自分の予備のスウェットを着させる村瀬。チビはちょっと違和感のあるような顔をしているものの、タカオとおそろいだと喜んでいた。


「名前、名前……。私はセンスとかそういうのがないから思いつかないな」

「じゃあタカオがつけてくれたチビでい……」

「ちゃんと付けるからっ」


 さすがに外で「チビです」と名乗られるのはまずい……と村瀬は必死で考える。とはいえ、つまらない人生を送ってきた自分には良い名前をつけてやれる自信がなくて、村瀬はチビを見ながら必死で考えていた。


 自分とチビとの出会いから一度別れるまで、つい最近怪我をしたチビを保護したこと、家でチビと過ごしたこと。


 しばらくの後、おずおずと村瀬が切り出す。


「えっと、ユキジ……というのはどうかな。ちょっと渋いか。お前格好いいもんな」

「ユキジ? ううん、いいよ。俺はタカオがくれたものなら嬉しい」

「字は幸せの『幸』に慈しむの『慈』。私に幸せを運んでくれて愛情深いお前っぽいかなって。……いや、ごめん……それはあと付け。お前はキジトラだからキジを入れた」

「俺、漢字あんまりわからない。でも意味なんて言わなきゃわからないのに言っちゃうタカオが好きだよ。子どものときも今も、俺が困っていたらすぐ助けてくれちゃうところも全然変わってない。タカオはいつも『私なんか』って言うけどそんなことないよ。少なくとも俺には一番大事な人間。大好き」


 その言葉にまたも村瀬の目に涙が浮かんでくる。こんな直接的な言葉で愛情や好意を伝えられたことなんて、今まで一度もなかったから。


 子どもの頃は愛情が欲しくてしょうがなかった村瀬だが、母親が蒸発してからはすっかり諦めてしまっていた。それなのにチビ改めユキジは何も飾らずまっすぐに伝えてくる。


「タカオ、なんで泣いちゃうの? どこか痛い?」

「痛くない。大丈夫だ。……その、これは嬉し泣き? なのかな……わからないけど胸が震えるんだ」


 ユキジがぎゅうっと村瀬を抱きしめて撫でる。「俺はタカオにこうされると落ち着くし気持ちいいんだ。だからタカオにもしてあげる」とニコニコとしながら村瀬が泣き止むまでずっと撫で続ける。

 村瀬は泣きすぎだよなと思うものの涙が止められず、今日が休みで良かったと思っていた。


 さすがに目を冷やそうと濡れたタオルを当てているとユキジが心配そうに覗き込む。いつもは村瀬が胡座の上にユキジを乗せて撫でていたのに、今は泣き疲れた村瀬を膝枕して撫でているユキジがいた。


「なんで……ユキジは今まで猫のままでいたんだ?」

「人間っていうのは俺たちみたいなのを怖がるって聞いたんだ。タカオも怖がってたもん……。っていうか、タカオが仕事に行っている間は人間の姿になってたんだよ。あの首の、嫌だったから。トイレとかタカオの真似してたし……でもタカオがすごく心配するから」

「あー……あれか。確かにトイレ行かないと思って心配した。それにしても、さ。さっき……わざと怪我したとか言わなかったか?」


 村瀬がそう言うとユキジは目を逸らして黙ってしまう。別に村瀬も責めようとした訳ではない。きっとユキジも切羽詰まっていたんだろうと思っていたから。ただ、自分を大事に思ってくれる存在が身体を傷つけるのは嫌だなと思ったことは伝えたかった。


「ユキジ、ちゃんとこっち見て。例えばだけど、ユキジは私が自分に刃物を突き立てたりしたらどう思う?」

「だめっ! そんなのやだ。俺にとってタカオは……あっ」

「うん。私も同じだから。もうしないで欲しい」


 村瀬がユキジの腹部に触れるとユキジは泣きそうな表情で頷いて「ごめんなさい」と素直に謝る。しゅんとしているユキジに今は猫耳などないはずなのに、倒した猫耳が見えるようで村瀬は手を伸ばしてユキジの頬を撫でた。

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