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7.賢い猫

 次の診察の時、猫のカラーは外していいと許可が下りた。かなりの回復力だと先生も少し驚いている。そして、この数日の猫の様子を村瀬から聞いた先生は不思議そうに猫を見ながら村瀬に言った。


「賢いというには……うーん。村瀬さん、最近は飲みすぎとか寝不足とか……」

「先生……私はいたって普通です。むしろ前よりはまともな生活をしていると思いますけど」

「そうなんですよね。顔色も前よりは良いように見えるんですけどねぇ」


 さすがに先生は『この猫は人間の言葉を理解して行動していそうだ』と話す村瀬のことを心配そうな目で見てくる。疲れやストレスのあまりおかしくなったのではと先生に思われたのかと、村瀬は少し恥ずかしくなって俯いてしまった。


「村瀬さん、すいません。以前の村瀬さんの状態があまりに悪そうだったから心配してしまっただけで、別に村瀬さんの頭が変になったとかそういう風に思った訳じゃないんですよ? 僕だって動物と心が通じているんじゃないかって思うときありますしね。彼らは純粋ですから。心を許した人間に真っ直ぐな愛情を向けてくれるんです」


 そう優しく声をかけられて村瀬はおずおずと顔をあげた。確かに先生の表情は自分を蔑んだような感じでもないとホッと息をつく。さすがに『この人はいい人そうだ』と思った人間に、今更変人扱いされるのはキツイものがある。そんな気持ちでいたから村瀬は安堵の気持ちでいっぱいになった。


 もしかしたら『世界で一番自分に寄り添ってくれている人間は先生なのではないか』とすら思えてくる。そんな村瀬の様子を知ってか知らずか目をそらさずに微笑んだまま先生は頷いた。


「ということは、この猫は私に?」

「そりゃあ、そうでしょう。賢い子だからこそ村瀬さんが怪我をしたところを助けてくれて、自分のために一生懸命してくれてるのを感じ取ってるんだと思いますよ」

「そう、なんですね……私こそコイツに救われてるのに……私なんかを」


 それは以前子猫を世話していたときと同じような感覚。自分より弱いものを助けることで、自分にも求められる役割があるのだと思いたい感覚。


 いや、あの時より今は純粋ではなくなって……やや偽善めいた思いもあった。それなのに、そんな打算的な自分なんかを慕ってくれる存在がいるというのが、村瀬にはなんとも申し訳なくこそばゆい気持ちだった。


 村瀬は常々、「病気になってしまいたい」「事故に遭ってしまいたい」「この世から消えてしまいたい」とか、「自分がこの世から消えてしまったとしても悲しむ人は一人もいないし……でも死ぬのは怖い」などと考えていた。

 そうやっていつの間にか30歳を超えていて、何かを残すでもなく淡々と毎日が過ぎていく。


 これでは駄目だと一念発起するにはあまりにも気力がなかったし、染み付いた自己否定の感情はそう簡単にはなくならない。

 それが今は「コイツの面倒を見なくては」ということで頭がいっぱいで「消えたい消えたい」と無限に考えることがなくなった。助けられているのは自分なのにと村瀬は思う。


「村瀬さん、そんな顔しないでください。今、この猫ちゃんの命綱は村瀬さんなんですよ?」

「そんな大げさな……」

「にゃーん」

「う……相変わらずお前は……」


 先生は口元を腕で隠しつつ「確かに本当に話しているみたいですね」と笑いながら言った。


 本来の診療時間ではない夜の動物病院は、村瀬と猫と先生だけの穏やかな時間が流れている。村瀬にとって、こんな風に『普通の』人間らしい会話をするのはここだけだった。

 でも、翌日も仕事があるから長居はできないと動物病院をあとにする。


 ケージを抱えて帰りながら村瀬は考えていた。


 あんな妄想めいた話も――体調の心配はされたものの――先生は真面目に聞いてくれて……。怒鳴られることもなく馬鹿にされることもなくスルーされることもなかったな、と。


 この出来事を思い出すだけで、発泡酒を飲むよりなんとなくいい気分で一日を終えられそうな気がする。村瀬はそんなアルコールではないフワフワとした気持ちに酔っていた。


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