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6.生活の変化

 実は、職場で村瀬の周りは少し変化してきている。職場の同僚の一部に村瀬が怪我をした猫を保護したことが知られたからだ。


 以前のように23時になっても残業をするなんてことはなくなったとはいえ、猫の世話グッズを買うには仕事が終わってからでは無理だった。そこで自分の少ない昼休みを潰してカリカリと猫砂を買ってきたのだが、目ざとい猫好き社員に見つかって、話すことになったのがキッカケだ。


 よく話す同僚でもなかったし、どちらかというと仕事を押し付けてくる側の人間だったが、自らを『猫の下僕』と言ってはばからない彼は少しだけ村瀬の味方になった。村瀬の……というのは少し違うかもしれない。その同僚曰く『怪我をしているお猫様を夜遅くまで独りで待たせるとは何事だ』と言っていたから。


「ただいま」

「なぉーん」


 狭い自宅だからすぐに声が聞こえる。村瀬が靴を脱いでいると野良猫はすぐに足元まで来て、スリスリと怪我をしていない方の体を脛にすりつけながらウロウロとする……のが可愛いけれど危なっかしい。


「こら、腹を蹴っちゃいそうで怖いから足にまとわりつくなって。ああ、もう!」


 村瀬はヒョイと猫を抱き上げるとベッドの上にそっと下ろす。


 今までならスーツを適当にハンガーにかけたら、Tシャツとトランクスみたいな格好で寝てしまっていた。けれど今は時間も早いので新しく買ったスウェットに着替えている。

 そして買い置きをしている発泡酒を冷蔵庫から取り出して、ベッドを背もたれにドカッと座り込めば、すかさず猫が村瀬の胡座の上に乗ってくるのだ。


 猫はこういうとき前足でカラーを擦る。きっと取りたいのだろうなとは思うものの、先生からまだもう少しと言われているからと村瀬は心を鬼にして言った。


「こら、だめだぞ。先生も言ってただろ? きっと次の時には外れるからお前も頑張れ」


 そう猫に話しかけながら村瀬がスマホを見ると、『情報はなさそうです』と先生からメッセージが入っていた。ないならメッセージしなくてもいいのに本当に動物のことに一生懸命な先生だなと村瀬は少し笑い、でも返信はせずに猫を撫でる。


「今日の話を聞いてくれるか?」


 ここのところの習慣になっている猫への報告と愚痴。人間相手じゃないからこそ言える本音。村瀬が発泡酒を開けるとそれは始まる。


 左手に発泡酒、右手はカラーの内側の猫の顎あたりを指先で擦りながら村瀬はポツポツと話しだす。

 今までは何も考えないようにするために公園でガッと一気に発泡酒をあおって、自宅で気絶するように寝ていた。なのに今は、猫と自宅での時間を持つようになったから嫌でも色々考えてしまう。


「また資材課の課長が私に関係のない仕事を持ってきて……。別の課から私に押し付けてるのに、誰もおかしいって言わないんだ……私も言えないんだけどね」


 少しはマシになったとはいえ、職場での村瀬の扱いが劇的に改善するはずもなく、話し出せば愚痴は止まらない。村瀬は今まで通り仕事を押し付けられることが多かったし、他部署宛の苦情を何故か回されることも多かった。


 感情が希薄、というか何も考えないようにシャットアウトさせている村瀬は、いつも回された仕事を機械のように処理している。だが、猫に話し出すと『あの時本当は……』と心の底で感じたものが溢れてくるようだった。


 村瀬のそんな逆立つような気分も、猫を撫でていればなんだかこの子の毛並みのようにするりと落ち着いてくるのが不思議だ。胡座の上で時々腹を見せてくれるのも癒される。さすがにまだ怖くて腹は撫でくりまわせないけども。


 自分のことを考えないようにしてきたのに、猫との時間にすることがなくて話しだした自分のこと。他に会話の引き出しがなかったからで、実は話したかった訳でもない。本来は猫に話しかけなくても良かったのだが、自分に寄ってきてじっと見つめる猫を村瀬は放置できなかった。


 そうして夜は更けていき、村瀬がウトウトしだすと猫が胡座の上からベッドの上に移動してまるで寝ろと言わんばかりに鳴く。「怪我に当たると怖いだろ」と始めは猫をケージに入れようとしたこともったが、病院に行くときはあんなにおとなしく入った猫が入らない。せめて寝返りを打ってもぶつけなさそうな枕元ならいいんだけどなと呟けば、猫は定位置を枕と壁の間にしたらしい。


「お前、本当に私の言葉がわかっているみたいだな」


 動物以上人間未満……そんな感じがして村瀬は笑った。


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