「ああ、あの、先生。この子、うちでもこんな感じなんです。人間のことをよくわかっていそうというか。どこかで飼われていたんじゃないかなと思って色々なSNSも検索してみたんですが迷い猫の記事とかなくて……先生のところにはそういう情報って来てないですか?」
「うーん、保護団体からもそういう話はきていないと思いますね。でももう一回僕の方からもそちらに確認してみますよ」
先生はそう言いながらも情報を書き込んでいるのか、革の手帳をパラパラとめくっていた。不思議な先生だ……と村瀬は思う。
自分なら時間外に仕事が舞い込んで余計なことを聞かれれば嫌になるだろうが、この先生は嫌がるどころかニコニコと本心からのような笑顔で接してくれる。
しかも自分にも猫にも分け隔てがない。仕事が本当に好きで苦にならないのか……それともただただパワフルで根っからのいい人なのか、村瀬にはとんと想像もつかない。
「先生は……いつ休んでいるんです?」
気がつくと村瀬の口からポロリと言葉が漏れ出ていた。本当に無意識だったから村瀬は途端にしまったというような表情になる。
それを見た先生はクスクスと笑いながら答えた。
「やだな……僕が不眠不休で仕事してるとでも? 昼の診療のメインは父ですよ。僕は昼は勉強兼ねてたまに補佐。夜間対応は僕がやりたくてやってる感じで、手に負えなさそうなら父に連絡しますけど……基本夜は一人ってとこですね」
「あ、そういう……なるほど……」
先生の父親だという大先生はこの辺りじゃかなり評判のいい人で、「この動物病院の評判がいいのは僕ではなく父の功績ですよ」と先生は言う。
でも、それを聞いて村瀬はこの先生だって遠からずそうなるだろうと考えた。血筋なのか家庭環境なのか、こんな人達がいるんだなぁと別世界の人間を見るような気持ちとでも言ったらいいのか。
「むしろ、僕は村瀬さんの方が気になりますけど……ちゃんと休んでます?」
「え?」
「ちゃんと食べて寝ないと駄目ですよ? 僕の専門は動物だけど、人間だって動物だから調子悪そうなのはわかりますからね」
ふいに自分へと移る話題に居心地が悪くなってきてしまう……。村瀬も人には社交辞令のように『お身体大事にしてください』などと言うことはあったが、そういう自分は身体を労ることなどしてなかったし言われ慣れてもいなかったから。
先生が社交辞令でそれを言ってるのが丸わかりならば良かったのに、心底心配しているような顔をされたからこそ居たたまれない。
「いや……そんなたいしたことでは……」
「にゃー」
「ほら、猫ちゃんに心配かけないためにも。ね?」
「ええ……まあ……はい」
猫はじっと村瀬を見ていて、先生との会話に合いの手を入れるかのように鳴いたものだからつい村瀬も頷いてしまう……。
先生はそれを見て、学生のときにやっていたという簡単で美味しくて安くあがる料理なんかも教えてくれた。安物の電子レンジと冷蔵庫くらいしかないことに驚いてはいたが、とりあえずでやって見るなら百円均一ショップでも調理器具は買えますよとまでアドバイスをくれる。眉をハの字にしながら愛想笑いを浮かべる村瀬を見て、それ以上は言わなかったが……。
「あ、それはそうと、先生。トイレとかケージっていつまで借りていていいのでしょう?」
「その子が元気になるまでいいですよ。今は預かる子あまりいないし、一時的に使うものに出費はきついんでしょう? 保護した子の治療費を出す村瀬さんに免じて、ね」
「すいま……あ、いえ、ありがとうございます」
この先生には謝るよりお礼を……そう思って言い直す。そんな村瀬の様子を先生はニコニコと見ていて、さらにその様子を猫がじぃっと見ていたのだが、当の村瀬はこれっぽっちも気づいてはいなかった。
先生は、村瀬の帰り際に「迷い猫の知らせがあれば連絡しますね」と言ってきた。村瀬が日中はまず連絡は取れないと返すと、「それじゃあメッセージかメールで」とカルテに書いた連絡先以外の手段を聞いてきて戸惑う。そういうのを教えたのはあの辞めた同期くらいだったから。
「私は……そういうのも苦手で……」
「何言ってるんですか。猫ちゃんのためですよ」
「あ……そうですね」
電話が取れないからメッセージを送る。猫を探している人が見つかったらいち早く教えてくれるため。ただそれだけのことなのに、何を自意識過剰なと村瀬は一人猛烈な恥ずかしさに襲われた。