野良猫を保護してからの村瀬の生活は少しだけ人間らしくなった。今までよりは残業を減らす努力をしたり、公園で発泡酒を飲むのはやめて……家で飲むようにしたり。
猫のご飯もカリカリだけでは味気なかろう、薬もあるしと、魚の切り身を買ってきて初めて台所を使ってみた。相変わらず村瀬はろくなものを食べはしなかったのだが、なんとなく猫にはそうしてあげたかったのだ。
塩分は強いと良くないらしいと聞いて、刺身用のちょっと良いものを買ってしまって村瀬は苦笑する。何事にもやる気のなかった村瀬はそんなことすら新鮮で、自分の変化に少しばかり驚いてもいた。
「お前は本当におとなしいな。いや、怪我してるからか……。明日また病院に行くからその時は首のやつが外れるといいな?」
野良猫はどうやら村瀬のいない昼間もおとなしくしているらしく、帰宅したら家が荒れているなんてこともない。二日目まではトイレを使った形跡がわからず、慌ててネット検索したくらいだった。排泄できないのが続くようならまた先生に電話してみようかと思ったが、その後からは野良猫もトイレをちゃんと使えているようだ。
「やっぱり最初は怪我のせいで痛かったりツラかったりしたんだろうな……私だって腰を痛めたときはトイレに行くのもしんどかったからわからないでもないけど。まあ、ちゃんと回復しているようで良かったよ。それにしても……ネットにはお前を探しているような書き込みは見つからないぞ?」
村瀬は数日いろいろなSNSで検索を続けてみたが、迷い猫の書き込みは見つけられなかった。明らかに人馴れしていそうなのにと不思議には思うが、見つからないものはしょうがない。村瀬はやはりあの先生に聞いてみようと思った。
野良猫は村瀬をじっと見ていたり、疲れて帰ってきたときに擦り寄ってきたりとしっかり村瀬を認識していた。特に村瀬の胡座の上が気に入ったのか乗ってきてゴロゴロと喉を鳴らしてくつろいでいる。
そんな猫の様子に、仕事で荒んだ気持ちになっていた村瀬もふっと気が緩むのを感じていた。猫を撫でながら発泡酒を飲んで、ちょっと愚痴る。それは今までの公園での発泡酒よりずっとずっと村瀬の心を掬い上げてくれるのだ……。
翌日、少し遅くなってしまうかもしれないと動物病院に一報いれた村瀬は、走って家に向かっていた。カバンを置いたら猫をケージに入れて、急いで動物病院に連れて行かなくては……とちょっと焦る。
果たしてあの野良はケージに入ってくれるのだろうか。そこに時間がかかってしまったらもっと先生に迷惑をかけてしまうから、なんとかしないといけないななどと考えていたのだが……。野良は逃げることも嫌がることもなくケージに入ってくれた。
「ほんっとうに、お前はいい子だな。今日はもう店が開いてないから、明日また良い魚を買ってやるからな」
村瀬がそう言うと、わかっているのかいないのか猫は小さく「うにゃ」と鳴いた。
ケージを揺らさないように慎重に、でも素早く歩く。動物病院は歩いて行ける範囲ではあるものの、すぐそこという距離でもない。
タクシーを拾うこともちらりと頭をよぎったが、猫を連れていることを説明するのも面倒くさかったし、近距離は嫌がられるという固定観念が村瀬にそうさせなかった。これは染み付いた「自分が我慢すればいいのだ」という遠慮精神とでもいうのか……。
動物病院の前に到着すると電話をかける。待っていたのか先生はすぐ応答してくれ、入り口を開けに出てきてくれた。
「村瀬さん、待ってましたよ。猫ちゃん、どうかなー? さ、中へどうぞ」
「本当に遅くなってしまって申し訳……」
「それは本当に気にしなくていいんで。僕らが動物たちの心配をするのはもう習性とでもいいますか」
「えっと、では、ありがとうございます……ですね」
「その方が嬉しいです。さて、猫ちゃん、傷を見せてねー。おいで」
先生はとても優しい眼差しで猫に声をかけ、ケージからそっと猫を出す。相変わらずされるがままの猫は保定も必要ないくらいおとなしい。
「あれ? まだ数日なのに随分傷が綺麗になってるな……村瀬さん、これならあと少しでカラー外してもいいかな。もう少しだけしていてほしいんですけどね」
「そうなんですね。やっぱりちょっと嫌そうにしているときがあるから、今日外れたらいいなとは思ったんですけど。先生が言うならもう少し我慢してもらうしかないですね」
村瀬と先生の会話を聞いているのか、猫は耳を倒してふて寝のような格好になってしまった。それを見て、村瀬と先生の二人は顔を見合わせて笑う。それはなんとも温かい時間だった。