村瀬がこんな早い時間に自宅に帰ってくるなんて何年ぶりだかわからないくらいだった。とりあえず、朝適当に片付けた床ではあったが、猫をケージから出す前にもう少し綺麗に掃除をする。
荷物にはなったが、猫のトイレや砂なんかも病院で借りることができたので、村瀬は部屋中をぐるっと見回した後でダイニングキッチンの端っこに設置してみた。
「まあ、広い部屋じゃないからこの辺しかないもんな。猫とはいえ、トイレが丸見えは嫌だろうし」
村瀬が納得いくようにセッティングを終えると、ケージの扉を開ける。無理やり引きずり出すよりは、猫が警戒心を解いて自分から好奇心で出てきてくれるほうがいいだろう、そんな思いで村瀬はあえて放置した。
ただ、村瀬は村瀬でこんなに早い時間に自宅にいることがないので手持ち無沙汰で困っていた。とはいえ、猫に関してのサイトをスマホで検索を始めると、知らないこともあって夢中になって読んでいた。
「あれ? いない?」
ふとケージを見れば、奥に丸まっていた猫がいないことに気がつく。どこだとぐるりと部屋を見回すと、村瀬の真後ろ、ベッドの上で丸くなって寝ている猫に気がついた。
「ぶっ。ベッドのど真ん中か。初日から図々しいなぁ」
そんな遠慮のない猫に村瀬は嬉しくなってそっと猫の背中を撫でた。猫の耳がピクピクと揺れて、尻尾がパタンと叩きつけられる。
昨夜、寝落ちる前に子供の頃に猫を世話していたことを思い出していたな……と猫を撫でながら村瀬は考えていた。
……世話をしていたと言っても飼っていたのとは違う。小学校の裏の林でこっそりと子猫の世話をしていただけなのだ。捨てられたのか親とはぐれたのか……生まれたてではないが小さな子猫が震えているのを見つけて、小学校から持ち出したダンボールで雨除けの猫ハウスを作ってあげた。そしてほぼ毎日給食の牛乳やコッペパンをこっそり持ち帰ってその子猫にやっていただけの小さな自己満足。
その当時、村瀬の父親は事業で失敗して酒に逃げては暴力を振るい、母親はただやられる人ではなかったが生傷は絶えない状態。暴言も飛び交う殺伐とした家は居心地が悪くて、幼い村瀬は薄暗くなるまで子猫と過ごしていた。もちろんそんな険悪な雰囲気の家族に「猫が飼いたい」などと言えないことは幼い村瀬にもわかりきっていて……。だから、林で子猫と遊んだり話しかけたりすることが唯一の楽しみでもあった。
幼い村瀬は子猫に自分を重ねていた。
あの日、雨に濡れて小さくなって震えている姿は、自宅の端っこで父親を恐れて縮こまっている自分と同じように思えたからだ。そんな子猫に優しくしてあげることで「良いことをしている」と思うと同時に、自分自身を助けているようなそんな気分になっていた。「一緒に暮らせたらずっとずっと大事にするのにな……」そう幼い村瀬が言うと、子猫がミャアと鳴いたのをぼんやり思い出す。
そのうち両親の離婚が決まり、村瀬は母親に連れられて引っ越すことになる。「ごめん……僕、フジサワってところに引っ越さなくちゃいけないんだって。もう会えないんだ……」とボロボロと涙を流しながら子猫を抱きしめると、子猫は幼い村瀬の頬の涙をペロペロと舐めていた。
「ああ、今まで忘れていたことを思い出しちゃったな……こんな私でも動物のことで泣いたことがあったんだ」
今や感情が薄くなって、いつでも「面倒くさい……」としか感じなくなってしまった。そんな村瀬でも、ちょっとしたことで泣いたり笑ったり怒ったり悔しかったりしたことがあったのだ。
それと同時に人間らしい感情を持つということはエネルギーを使うんだな……とどこか他人事のようにも感じる。
そうやってちょっと思考が飛びそうになると猫が尻尾で叩いてきて、まるで「構え」と言っているようだった。
「ははっ。お前は大人の野良なのに、人に慣れているんだなぁ。いや、もしかしてどこかで飼われていたのか? だったら飼い主を探してあげないといけないな」
村瀬は自分の住む近辺で猫がいなくなったと探している人がいないか、スマホで検索を始めた。しかし、そういった書き込みは見つからず、村瀬は次に猫を動物病院に連れて行くときに、あの人の良さそうな先生に聞いてみようと思った。