翌朝もいつもと同じように目覚ましで叩き起こされた。なかなか開かないまぶたを擦りながら熱いシャワーを浴びて「いつもの一日が始まる……」と憂鬱になる。
ただひとつ、いつもと違うのは、今日は仕事の帰りに動物病院に猫を引き取りに行かなくてはいけないということ。いつもより残業できないから、もしかしたら上司から嫌味の一つでも言われるかもしれない。そう思うとより憂鬱になりそうになるが、それは考えないようにして、ざっと床に散らばった物を片付けて家を出た。
基本的に村瀬は自炊はしない。自分のために手間をかけてやろうという考えはないし、倒れない程度に腹を満たせればいいのだからコンビニでおにぎりでも買えばいいのだ。
身体にあまり良くないだろうとは思いつつ、忙しい毎日が余裕を与えてくれない。
仕事が始まれば何故か便利屋のごとく他部署からも業務を寄越され、自分の仕事がギリギリになるものだから多方から怒られる。そんなサンドバッグの村瀬を憐れむような目で見る者もいるが、パワハラに巻き込まれたくはないようで手を差し伸べてくれるような同僚はいなかった。
前に村瀬に忠告してくれた同期が唯一かばってくれた人間だったかもしれない。消極的な村瀬はそんな同期にも連絡することなくなってしまったのだが。
「ああ、面倒くさい……」
そう、何もかもが面倒くさかった。
押し付けられる仕事をやんわりと断るのも、それで相手が不機嫌になるのも、ご機嫌を取るのも、仕事を受けたら受けたで何故自分の業務でないものをしなきゃいけないのかも、それに対してちゃんと反論できない自分にも……。
ストレスは貯まる一方なのに発散する場がない。そして、この環境から抜け出そうとすることすら面倒くさいと思ってしまう村瀬はもはや末期と言えよう。
いつもなら23時近くになっても残業している村瀬は、周りに頭を下げながら……というより、カバンを抱えて俯いて逃げるように20時前に退社した。
あの動物病院なら遅くに連絡をいれても対応してくれるかもしれないが、いい先生だからこそ自分なんかが迷惑かけたくないと村瀬は思ってしまった。卑屈に物事を考えるのがクセになっているのだからしょうがない。
いつもなら職場から電車に乗って最寄り駅に出ると、少し迂回してコンビニと公園に寄るところだが、動物病院に行くので全然違うルートで歩き出す。時間帯も早くて村瀬にとっては少しばかり新鮮な光景に映った。
「明るい……人も多い……数時間違うだけでこんな違うのか……」
いつもの時間なら、シャッターの閉まっている店も多い駅前の商店街をキョロキョロと見回しながら通り過ぎ、早足で動物病院のある住宅街へと向かう。
一応お金は多めに下ろしてきたとはいえ、保険適用外の動物の治療費はいかばかりかと村瀬は緊張していた。
「……こんばんはー?」
「ああ、村瀬さん、お仕事早く終われたんですか?」
「……はは。終わってはないですけど、終わらせてきたとでも言いますか、ね」
「気にしなくても良かったのに」
「昨日も遅くに開けていただいたんで、申し訳ないですから」
昨夜と同じように感じのいい動物病院の先生は「ちょっと待ってて下さいねー」と奥に入っていった。そして一つケージを抱えて戻ってくる。
村瀬がケージを覗き込むと昨夜の野良猫が角に丸くなっていた。
「一応怪我の処置と、化膿止の薬ですね。この子環境変わっても暴れたり怯えたりしませんでしたね。薬もちゃんと口にしてくれるし、肝が座ってるのかな。さすがにカラーは嫌がりましたけど、舐めちゃうといけないからしばらくは取らないで下さいね」
先生の話を聞きながら、そこまで徹底的に注意しなければいけないわけではなさそうで、村瀬は少し安心していた。
朝のうちに大家の老夫婦にも怪我をした猫を一時的に保護する許可を得ていた。ペット不可ではあったが、怪我をしていたら暴れて部屋を傷めることもないだろうとのことだ。
元気になるまで少し世話をするだけなのだからといっても不安がない訳ではない。自宅で動物を飼うのは人生初だったので、メモを片手に村瀬は先生に質問をしまくる始末だ。
「それはそうと、村瀬さんが里親探しされるということでしたけど、大変そうなら……うちと提携している保護団体もありますから声かけて下さいね。ケージやグッズは一旦お貸ししますから」
本当に何から何まで気にしてくれるいい先生だな、などと思いながらケージを揺らさないように抱えて村瀬は歩く。今、このケージの中で猫はどんなことを考えているんだろうなどと思いながら。