その日聞いたオリエンテーションの話は楽しめなかった。主に友人の話だったが、どこで佐藤さんと出会ったのかと冷や冷やしてしまう。結局話題には出てこなかったが、むかむかしながら家路についた。
家に帰って黙々と夕飯を食べ終わると、先に夕食を済ませてソファでテレビを見ていた湊太が「これ食う?」と個包装されたせんべいを差し出してきた。
「どうしたの、これ」
「先週もらわなかった? ミナト君からのオリエンテーション土産」
「は?」
思わず声が尖って、湊太が目を丸くさせた。
「俺、変なこと言った?」
「あ、いやごめん、ミナト君からオリエンテーションの話を聞いて、去年の嫌なことを思い出したばっかりでさ」
「……ふうん?」
「ほら、特進って自由時間も学習時間だったからさ、他の科が楽しそうに遊んでるのが羨ましかったんだよ。すっごく根に持ってるわけ」
「……あ、そう」
湊太は分かったような分からないような微妙な顔をした。
「コータは部活やってるからそういう感じじゃないけど、普通科から見ると特進って朝から晩まで勉強してる最強軍団に見えるぜ。夏期講習とか、地獄かよ? よくできるなって思って見てた」
「僕もクラスメイトを見ててよくできるなって思う」
「いや、コータもその一員だろ」
「僕は一回読んで覚えたらあとはぼんやりしてるだけだもん。数学とかはそうはいかないけどさ」
「ああ、なんで俺にはその能力がねえんだよ。試験で発揮してえ」
そこで話を切り上げ、部屋に戻ってせんべいをぼりぼり食べる。湊太にまでお土産を渡すなんて律儀だなという思いと、自分の知らないところでなにをしゃべってるのかななどと嫉妬めいたことを思う。
床に膝をついてコロコロとカーペットクリーナーを手で動かすと、脳内で第一体育館の舞台が蘇った。あるはずもない、ミナトがそこに立つ姿を思い描く。他の照明が消えた闇の舞台の上に、サスペンションライトのひと筋の光がひとりの人物だけを捉えるサス残し。そこに立つミナトが照明にきらきらさせた金髪を片手で払い、暗闇に向かって手を伸ばす。
「佐藤さん、一緒に帰ろう」
するともう一つのライトが地面に落ちる。ブレザー姿の女子が嬉しそうに胸に手を当て、ミナトのほうへ片手を伸ばすのだ。
カッとなって頭の中でフェーダーを下げた。照明を絞って女子の姿をフェードアウトさせる。
頭の中は自由だ。自分の人生において誰にライトを当てるかなんて誰にも縛れない。だが、頭の中と現実は一致しない。ミナトは暗闇の中に立つ佐藤さんを見つけたのだろうし、自分はそれを客席側から見ることしかできないのだろう。ミナトが主役の世界で、自分はまた見る側にしかなれない。
もやもやして迎えた翌週は、机の上の「ただデートに誘うだけでも喜んでくれると思う?」「すでに行ったところでもまた楽しめる場所ってある?」という問いに答えなければならなかった。前者に「きっと喜ぶよ」と書き、後者には「映画は?」と答える。
まだセカンド回し飲みができていない現状に悶々とし、部活では刷毛をがさがさと動かしてベニヤ板にペンキを塗った。つんとするにおいに頭を振り、稽古に声を張る。
「『朝比奈君は、最近彼女のユキちゃんとどう?』」
「『それが、こないだもバイトが忙しいってデートを断られちゃってさ』」
「『いのち短し恋せよ乙女って言うのにね』」
「『ユキちゃんは人生長し稼がにゃアウトって感じなんだよな』」
「『なにそれ!』」
ブレザーの上にコートを着るようになると落ち葉はどこかに消えて、寒々しい枝が空をどんと突かんとばかりにきりりと尖る。冬到来の棘がちくちくと頬を刺して、口元までマルチカラーのマフラーでぐるぐる巻きにする。すると、息をするたびに薄らと目の前に白い息がのぼった。
星空がきれいになる時間のふたりの帰り道は、本屋に寄ったり、公園で温かい飲みものを買って二十分ほど話したりして帰るようになった。毎回「じゃあね」が言い出しづらくて、「寒いっす」の言葉が出る前にミナト用に持ってきているカイロを渡す。
試験二週間前に入ると、特進科はゼロ時間目の朝勉強が始まる。湊太より早起きして、寒さの中を走って登校する。体を温めてから机に向かうと今年も冬がやって来たという気がする。どうやら机の上の丸文字も同じらしく、クリスマスの話になった。
『金曜が終業式、二十四日の土曜から冬休みだけど、クリスマスデートに行くならどこに行けばいい?』
この近くの駅から二十分ほど電車に揺られると、市の中心部に出る。そこにある三階建てのモールの中央にはストリートピアノが設置されているのだが、クリスマスには巨大なクリスマスツリーが立つ。
ここのイルミネーションは定番の赤と緑と白のイメージの年もあれば、ゴールドとシルバーでまとめた上品な雰囲気の年もある。小さい頃は毎年家族と見に行って、何色になるか楽しみにしていた。この近辺に住む人にとって、クリスマスのイルミネーションは楽しみの一つである。
エアコンが効きすぎて暖かすぎる教室はなんだか空気がこもる。息苦しさを感じながら、そのクリスマスツリーの前で笑うミナトを思い浮かべた。だが、その視線の先にいるのは自分ではない。
シャーペンを持つ手が横に下りた。分からない。どこへ行けばいいのかも、自分の気持ちも、なにもかも。
なにも書かずに授業を終え、くちびるを噛みしめて教室を出た。