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第15話 演技しなくていいよ

 少し冷たくなった秋の風が頬を撫でていく。足元でかさっと音がしたと思ったら、運ばれてきた落ち葉がコンクリートの東屋に入ってきていた。ミナトのまばたきの少ない目がじっとこちらを見ている。その視線に射抜かれて、思わず本音がぽろっと漏れた。


「……俺、は無理かもしれない……もう僕で馴染んじゃった……」

「じゃあ僕でいいけどさ。次の新しい劇の役を決めるのはいつなの。そこで役をもらえばいいじゃん。弟先輩の代役だから、自分で比べて悩むんでしょ。別の役だったらいいんじゃねえの? そういうの、手をあげて立候補して決まんの?」

「……大会をどこまで進めるかで時期は変わっちゃう。あと、役はオーディションで決まるから、ちゃんと演技ができないとダメなんだけど」

「じゃ、そのオーディションで役をもらえるように頑張ればいいんじゃん? この間オレが劇を見たときも、部活の人たちは先輩をうまいって褒めてたし。役をもらえるくらいできるってことじゃねえの」


 ミナトが頭を掻いてため息をつく。


「あのさ、オレの前で演技しなくていいよ。弟先輩のことはほとんど知らないから、先輩がなに言ったってオレには比べようがないし。オレはひとりっ子で兄弟と比べられる感覚が分かんないから、先輩の悩みは分かんない。でもさ、誰かひとりくらいに本音を言ってもよくねえ?」


 オレの前で演技しなくてもいいよ。


 まるで突風のようにその言葉が洸太の心臓を貫き、吹き抜けていった。オレンジ色の落ち葉を攫っていくような、心地いい秋の風。自分でも目が見開いていくのが分かる。ミナトの金髪が差し込む夕日に輝いていて、きらきらしていた。そのきらきらが広がってその視界が滲み、突然ほろりと崩れた。しかめっ面をしていたミナトの目が丸くなるのが分かる。


「あ、ごめん」


 自分が泣いていることに気づき、思わず顔の前に腕を出して顔を隠す。


「ちょっとごめん。びっくりしただけ。うわ、僕、すごくダサい」


 言いわけが口から出ると、それにつられたように涙が止まらなくなって、羞恥心に体が熱くなる。


「ミナト君ちょっと待って。恥ずかしい。あの、ごめん」

「すみません!」


 ミナトが大きな声を張り上げた。先ほどとは一転、慌てたような口調で「えっと、あの」とあたふたする。


「ひどいこと言ってすんません! てめえには分かんねえよって話っすよね。分かったふうな口きいて悪かったっす!」

「そうじゃない。ミナト君は悪くないよ」

「いや、でも」


 そこでミナトがなにかに気づいたように「これ!」と差し出してきた。視界を遮った腕の下から見ると、いつか本を拾ってくれたときに見た白と青のボーダーのタオルハンカチだった。


「あの、本当にすみません。先輩を責めたかったわけじゃないっす……先輩は先輩のままでいいって思ったから……」


 落とした本を拭いてくれたハンカチ。あのときも自分は悪くないのに謝ってくれた。ミナトは優しい子だ。今自分が本音を落としたら、それも丁寧に拾ってくれるのだろうか。


 ハンカチを受け取り、眼鏡をとって目元を押さえ、また眼鏡をかけ直す。はあと息をつき、横に座る彼を見上げた。その顔はまるで痛みを感じているように歪んでいたが、「本音を言ってもいい?」と聞くといつも通りの表情に戻った。


「役者をやるの、本当はすごく楽しい」


 言葉を短く区切って息を吸う。


「ソータの代役もあと数日だけど、全力を出してみたいんだ」

「やればいいと思うっす。誰だって好きなことしたいっしょ」

「今特進科にいるけど、有名大学に入りたいとか目標があるわけじゃないんだ。高校に合格したときにソータと別でほっとしただけ」

「学校では兄弟と離れたいって普通じゃないっすか。中学のクラスメイトが廊下で姉ちゃんとすれ違うと気まずいって言ってたっす」

「ソータは高校に入ってからも外部のオーディションを受けてるし、俳優とかそっちの道に進もうとしてる。ソータが親とそういう話をしてるのを横目で見ながら、僕は教科書を読んで暗記する。すっごく虚しいよ」

「虚しいってことは先輩もそういう方向に興味があるんじゃないっすか」


 ミナトが金髪プリンの頭を掻いた。


「先輩は隠しごとが多いっすね。今みたいなこと、親にも弟先輩にも言ってないんしょ? もうここで全部言っちゃえば? オレ、それを聞いたところで弟先輩にも言わないですし」


 全部言っちゃえば。そのセリフにまた涙が出てきそうになった。


 誰も聞いてくれなかった。いや、自分が言おうとしなかった。大学受験に必死なクラスメイトにも、演劇が好きな部活仲間にも。夢物語を言っていると思われるから。湊太と比べられるはずだから。でも本当は声を大にして言いたかった。


 息せきって心の内を明かす。


「僕、本当は大学じゃなくて事務所の養成所に入りたいんだ。将来の夢は舞台役者なんだよ。僕だってああやって舞台に立ちたい……!」


 床に積み上がっている本の間に隠してある劇団の資料や演劇関連の書籍。湊太がこれまで受けてきたオーディションの要項も持っている。親も湊太も自分の部屋に入らないから隠せているだけだ。自分の部屋では夢について自由に考えたり、必要なことを調べたりできた。自分を楽しませてくれる本や資料に囲まれていると安心できる。積ん読タワーがそこにあることが、心の慰めになるのだ。


「じゃあ先輩、約束してくださいよ」


 眼鏡を外してハンカチで目元を押さえると、ミナトがそう言って口角を上げた。


「先輩の初公演のチケットをください。オレ、学校を休んで見に行きます」


 ミナトがにっと白い歯を見せた。


「その半券を財布に入れるんで。オレが先輩の舞台の半券コレクションを作りますね」


 ああ、すごく優しい子だな。ミナトの柔和な笑みが胸に染みて安堵する。だが、半券を財布に入れるミナトを想像したら笑ってしまった。


「ミナト君、それ、佐藤さんに変な趣味って思われるからやめたほうがいいよ。プログラムの間にでも挟んでおいて」


 洸太がははっと笑うと、ミナトが一瞬動きを止めた。そしてちょっと考えるように首を傾げ、小さく笑う。


「大丈夫っす。そんな佐藤さんはオレの前にやってこないんで」

「……ミナト君」


 洸太はミナトの隣にぴたりと座り、ちょうどいい高さにある肩にコンと頭をつけた。


「ちょっと肩貸して」


 ミナトの肩に頭をのせると、公園の景色は角度をつけて傾く。ミナトの肩が一瞬びくっとしたのが分かったが、それでも伝わってくる熱にほころんで目を瞑った。


 自分のことを受け入れてくれる人がいる。それがどんなに嬉しいことか、こうしていれば言葉にしなくても伝わるだろうか。


 濃紺の空の下、駅へ向かう道で別れた。じゃあと道を行く大きな背中を見つめる。


 初めて人に自分の夢を話した。これまでずっと胸につかえていた思いを吐き出せて、体がすっきりしている。人に話せたことで自分の将来の夢がはっきりした。舞台役者を目指すこと、それは子役のオーディションを落ちたことのある自分だってやっていいことだ。家に帰ったら、舞台役者を目指せる養成所のホームページを確認したい。


 ミナトは不思議な子だ。湊太とふたりでいれば見向きもされない自分と仲良くしてくれて、自分の前で演技をしなくていいと言う。演劇を知らないと言いつつ、洸太の舞台を見てみたいと自然な口調で話す。年下なのに自分よりずっとしっかりしている。最初は変わっているところにばかり目が行っていたが、今はどれだけ頼もしくて誠実で優しいか、よく分かる。


 これ、ミナト君のおかげで進路が決まったようなものだよな。


 洸太は家に向かって歩き出した。夜空に星が瞬いている。風が冷たくて、カーディガンの上から腕をさすった。道の端に落ち葉が身を寄せ合って震えていて、草むらから虫の音がリーリーと聞こえる。


 ミナト君がいたから将来の夢を口にできた。どこへ向かえばいいか分からなかった自分を導いてくれた羅針盤だ。ミナト君の将来の夢は佐藤さんと結婚することだけど、自分になにかできるだろうか。二年生の佐藤さんを紹介すればいいのだろうか。


 そこで胸がちりっとして足が止まった。


 ミナト君が佐藤さんを見つけたら、放課後に一緒に帰ることもなくなるのだろうか。そうしたら、僕は誰に本音を話せばいいんだろう。


 くしゅん。くしゃみが出て、鼻を啜る。鞄を肩にかけ直し、地面を蹴って走り出した。すぐに体が熱くなってきて、はっはと口から息が漏れる。なぜか目の奥が熱い。ミナトに本音を打ち明けたときとは違う熱さだ。


 空を見上げれば星がちらちら瞬いている。洸太は目の熱さを振り切って走り続けた。

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