部活を終えてジャージから制服に着替える。今日はミナトが図書当番の日なので、校門で待ち合わせて帰る予定だ。スマホを見れば『校門にいます』とメッセージが来ている。
明るい気持ちで家に帰りたい。なにか食べに行こうって誘ってみようかな。
ため息をついてトイレから出ようとすると、ドアの向こうで演劇部員が廊下を通り過ぎた。
「やっぱりソータ先輩が出ないと穴が大きいよね」
「コータ先輩だと呼吸が合わないんだよね……ちゃんと練習になってるのかな」
遠くに去っていく言葉に顔がカッとなった。こぶしをぎゅうっと握る。急に寒さが足元から這い上がってきて、俯いて上履きの先を見た。
ただの代役だ。ただ湊太のセリフを読む人物がほしいだけ。だから今のままでいいはずだ。だが所詮代役で、みんなが本当に求めているものなど再現できない。
最終下校放送が流れ、深呼吸してトイレを出る。すのこをカタカタさせて革靴に履き替え、校門までの下り坂を下りる。秋は深まり、夜の空気が濃い。肺に取り込むと、胸の内側から重くなってくる。多くの制服姿が寒さにそそくさと帰っていく道で、ミナトだけが校門に寄りかかっていた。
「先輩、お疲れっす」
ハーフアップにピンで髪を押さえたミナトが、こちらに気づいて小さく手をあげる。その笑顔に洸太の口角も一瞬あがった。だが、どう笑えばいいか分からなくて、口を閉じてしまう。ミナトはそれに気づかず「帰りましょ」と言って歩き出した。外灯の明かりに大きな影のうしろを小さな影がついて行く。
「先輩、もう十月も終わるっす。あそこの公園にどんぐりがめっちゃ落ちてましたよね。公園行ってなにか飲みません? 昔公園中の落ち葉をゴミ袋に拾い集めて、一本の木の下に敷いてオレンジ色の絨毯を作ったっす。それだけだったのに楽しかったの、なんなんでしょうね。子どものときって謎なことが楽しかったりしますよね。先輩って小さい頃なにしてました? 弟先輩と一緒にごっこ遊びとかしてたんすか? 先輩の演技、すごかったっすもんね。それに」
「ミナト君!」
思わず言葉を遮っていた。驚いたようにミナトが足を止め、こちらを振り返る。だが、うまく表情を作れなくてミナトの顔を見ることができない。肩にかけた鞄の持ち手をぎゅっと握り締める。
「……想像できないかもしれないけど、小さい頃わんぱくだったのは僕で、ソータは家の中で遊ぶほうが好きだったんだよ。だけどソータは人見知りしないし新しいことをするのが好きだったから、きっといろんな役をやるのが楽しかったんだと思う。仕事で小学校もよく休んでたけど、学校に来ればみんなの中心にいて、にこにこしてるからみんなに好かれてた。休み時間は引っ張りだこになってたよ」
「……? 先輩、どうかしたんすか?」
ミナトが怪訝そうな声に変わった。
「弟先輩の情報は特に求めてないっす。なんとなく想像つくし。先輩がわんぱくだったっていうことのほうが気になるっす。オレみたいに落ち葉を集めて公園の清掃員のおじさんを困惑させました?」
一瞬面食らい、だが最後の言葉についふふっと笑ってしまった。肩の力が抜ける。こぶしの力が緩んで息をつく。
「おじさん、すごく困ってた?」
顔をあげてミナトを見ると、ミナトも小さく笑った。
「君が掃除してくれたのか、ありがとねってお礼を言われたっす。そのあと絨毯を作ったんで、ゴミ箱ひっくり返したくらいの嫌がらせをしたっすね」
「うーん、でもしかたないよね、絨毯を作りたかったんだから」
洸太が歩き出すと、ミナトも隣を歩き出した。足元で落ち葉を踏むとさくっという音がして、乾いた軽い旋律に次第に心が軽くなっていく。
「すげえふかふかにしたかったんすよね。公園の前の道の落ち葉も拾ったっす。なるべく赤とかオレンジとかを選んで。茶色のはハズレって思ってました」
「公園前の家の人は喜んだと思うよ。掃除しなくて済むし」
「先輩、それは一軒家に住んでる人のセリフ! オレん家、マンションなんで、全部管理人さんがやってくれるんす。でも、そのときはなんで片づけちゃうんだよってむかついてました」
ゴミ袋に落ち葉を集める少年の姿を想像して笑う。そうこうしているうちに公園に着いて、自販機でペットボトルを買った。洸太はレモンスカッシュ、ミナトはカフェオレだ。定位置となっている東屋に人はいなかった。目配せしてそこへ入り、並んで腰かけて鞄を横に置く。
チリッと音を立ててペットボトルの口を捻ると、ミナトがちらりとこちらを見下ろしてきた。
「……で? 今日はどうしちゃったんすか? 部活がどうかしたんすか?」
「ごめん、ちょっと嫌なことがあって。態度に出ちゃったよね」
レモンスカッシュがぱちぱちと喉を弾けて落ちていくと、ため息をついた。
「僕、情けないなあ。年下に気を遣わせてる」
「一歳違いってそんな年下? 先輩、何月生まれっすか」
「僕は四月。四月七日」
「やべ、ほぼ二歳差だ。オレ、三月十四日っす」
「早生まれでそんな大人っぽいの? 僕なんていまだに中学生に間違われるのに」
「中二のとき、大学生にアンケートをとってますってのに声かけられて、答えてやろうとしたら質問の意味が分かんなくて中学生バレしましたね。嘘はよくないっす」
真面目に言うミナトの言葉にまた笑ってしまった。体から力が抜けて、足をぐっと伸ばして再びレモンスカッシュを飲む。ぱちぱちする感触にもやもやしたものが弾け飛び、レモンのすっきり感が気持ちをなだらかにしていく。ミナトの隣にいるといろんなことが軽くなる。
だが、目蓋の裏には男子トイレのドアノブを掴む自分の手の映像と、聞こえてしまった後輩のセリフがセットになって焼きついてしまっている。ため息をつき、レモンスカッシュのラベルを見た。
「ミナト君がこないだ見たようにまだソータの代わりやってるんだけどさ、早く終わらないかなって思っちゃう。ソータの怪我が治ってほしいって意味もあるけど」
「……なんでっすか? 演技するの、嫌いっすか?」
ミナトが不思議そうに言う。
「オレがこないだ見たときはすごかったっすよ。楽しくなきゃできなくないっすか。先輩はこれが好きなんだなって伝わってきたっす」
「でも、楽しいだけじゃダメなんだよね。ソータじゃなきゃ練習にならないって言われちゃったよ。当たり前だよね。演劇は団体でやるものだし、自分ひとり楽しくてもみんなに迷惑をかけてたら邪魔でしかないし」
話していたらだんだんと脳裏の映像が鮮明になってきて、胸がぎゅっと痛くなった。思わず太もものズボンを掴んでうなだれる。
「僕はソータに適わない。同じ役をやってよく分かる。あいつが嫌なやつなら嫌いになれたけど、僕が言うのもなんだけど普通にいいやつだし。代役だって、僕が役者をやりたいって気づいてたからチャンスをくれただけ。期間限定のチャンスをものにできないって、やっぱり僕には致命的な欠陥があるんだよ。演劇部で主役を張れるかっこいいソータにはなれない。照明係でいるほうが楽なんだ。だから、早く戻りたくて」
「先輩もかっこいいっすけど」
間髪入れずに返ってきた言葉に思わず顔をあげると、ミナトはじっとこちらを見下ろしていた。
「先輩が弟先輩になれないって当たり前っすよね。だって、別人だし。顔は似てるけど、兄弟だから似てることは別におかしくないっすよね。それとも文化祭でオレが先輩と弟先輩を間違えたの、すげえ不愉快だったすか? だったら謝ります」
ミナトの口調は真剣だった。まだ開けていないカフェオレのペットボトルが行き場を失っている。
「オレには演劇は分かんないっすけど、あの役、セリフも出番も多くてすげえ大変なんでしょ? オレが見学した日の夜、弟先輩が言ってました。本当はただ台本を読むだけでよくて、あんなふうに演技する必要ないんだって。でもコータはやろうとしちゃうんだよねって。あと、こうも言ってました。多分これでまた悩ませちゃうんだろうなって。俺コータに失礼なことしちゃったなって。なんか悩んでるふうだったっす。その会話でその日の夜はつぶれました」
ミナトの言葉に「えっ」と思わず声が出た。
「もしかしてソータと連絡先を交換した? それ、メッセージでやり取りしたってこと?」
「弟先輩に連絡先を教えてよって言われたっす。弟先輩、フレンドリーっすよね。……って言うと、先輩は自分はフレンドリーだろうかとかって考え出すんですよね。不思議っす。なんでいつも弟先輩が基準? 先輩は先輩らしくいちゃダメってこと?」
ミナトの口調が次第に強くなってきたので、ごくりと唾を飲み込んだ。ミナトが眉根を寄せる。
「あのさ、先輩って普段から演技してるよね。本当のことを言わないっていうかさ。もしかして、人の目を気にしてる? 弟先輩とまるっきり別人にならなきゃって思ってんの? 同じところがあるとダメだと思ってる? それで髪型変えて眼鏡かけて僕って一人称まで変えてんの? でも、映画の半券を嬉しそうに見せて、読書量がすごくて、照明係のよさを語ってた。あれは演技じゃないっしょ。演技でできることじゃないし。それに、舞台の上の先輩は好きなことを本気でやってるって感じだった。好きなことを好きって表現できるとこ、すげえかっこいいと思うけど」
ミナトの口調から「っす」が消えた。
「多分、逆じゃない? 髪切って眼鏡外して俺って言ってみれば? 双子で顔が似てても全然違うって周りも分かるじゃん。同じ部活で二人とも演劇が好きでも、違う人間だって伝わる。弟先輩はたしかにすげえと思ったよ。でもさ、自分の人生の主役は自分のはずじゃん。先輩はなんで脇役の演技してんの? 常に主役は弟先輩で、先輩は脇役なの? 違うんじゃねえ?」