十二月の試験が終わると、特進科では冬期講習が始まった。普通科は終業式まで自宅学習期間になるから、湊太はもちろんのことミナトも授業はない。中途半端に終わってしまった机の丸文字とのやり取りは途絶えて、あれはミナト君と話す貴重な機会だったのにと思ったり、あれ以上佐藤さんの話題に付き合えないと感じたり、なにも書かれていない木目のやわらかな机に気持ちが行ったり来たりした。
演劇部は二月頭の学内公演に向けて、洸太以外のメンバーは朝から部活をやっていた。洸太は冬期講習が終わってからの数時間だけ一緒に稽古ができる。こちらが来るまでみんなは大道具を作ったり、洸太がいないシーンを練習したりしているらしい。放課後に洸太が合流すると、全体練習になるという流れができた。
ミナトとは洸太の部活帰り、ミナトのバイト帰りに会うようになった。これまでと同じ、本屋へ寄ったり、公園の代わりに駅前の広場で話したり、特に洸太が疲れた日はカフェで温かいものを飲んだり、またクレープを食べに行ったりした。
「先輩、土曜日のクリスマスイブ、どっかに遊びに行きません? 部活っすか」
ミナトの口からその言葉が出たのは終業式を三日後に控えた日だった。部活帰りのカフェで、白パーカーにジーンズのミナトはココアを飲んでいて、洸太は抹茶オレを飲んでいた。お互いのマグカップから湯気が立っていて、睫毛を少し湿らす。
洸太はミナトの言葉に驚き、マグカップを口につけようとしたのを止めた。
「その日、僕は顧問の先生がいなくて部活はないんだ。だから僕はいいんだけど、ミナト君は誰か遊ぶ予定はないの?」
「ないっす。一ナノメートルもないっす」
「ナノ……ってなんだっけ」
「ミクロンの千分の一ですね。ミリの百万分の一っす」
「よく覚えてるね。僕、ホントに数字系はダメみたい」
「習ったばっかっす」
でも、クリスマスイブって、いかにもデートみたいじゃない? そう思ったが、一瞬で冷静になった。机にクリスマスデートのことが書いてあった。翌日の佐藤さんとのクリスマスデートに備えての下見だろう。ミナトがココアをテーブルに置いて嬉しそうに言う。
「クリスマスって気分が爆上がりしませんか。歩いてる人もみんな楽しそうにしゃべったりしてるし、オレも今年はそっち側でクリスマスに参加したいっす」
「ミナト君の気分が爆上がりするとどうなるの。想像つかない」
「マジっすか。オレ、本気出しますよ。全力でクリスマスやるっす」
「クリスマスやるってなに?」
ついふふっと笑うと、ミナトがスマホを取り出して画面にあるオレンジのアイコンを指さした。
「スケジュール管理のアプリがあるっす。何時からなにをやるっていう計画を立てられるんすよ。分単位で書き込めるんす。朝から一日計画立てて、実際に実行できるかやってみたいっす」
そう言ってミナトはアイコンをタップした。
「先輩、また映画を見に行きません? この間のところまで行けば、近くのモールでクリスマスツリーのイルミネーションが見られるじゃないっすか。モールにはいろいろあるし」
「えっホント? 今ハリウッド映画ですごく評判がいいのがあるんだよ。見に行きたい! ミナト君は吹き替えと字幕、どっち派かな」
彼女とデートに行くなら映画。湊太にそう話したことを思い出し、どきどきして前のめりになってしまった。ミナトはそれに気づかないようで、簡単に言った。
「こだわりはないっす。先輩がいいほうでお願いします」
今日のミナトは髪をうしろで一つに縛っていた。またこぼれた髪を耳にかける。大きな手でやる繊細な仕草につい目が行く。
軽い口調で話すから見落としがちだが、ミナトは案外繊細で細やかな性格だ。そうでなければこちらのコンプレックスなど見抜かなかっただろうし、わざわざデートの下見になど行かないだろう。
そういう優しいところ、今はすごく残酷だよミナト君。
ちりちりする胸の痛みをこらえながらスマホを操作し、上映時間を確認する。朝の回が早くて嬉しくなった。その回から見れば朝からミナトに会える。
「九時四十分の回があるみたい。終わるのは十一時半前かな。そのあとお昼ご飯でどう? 早すぎるかな?」
「大丈夫っす。その回にしましょ。九時四十分からは映画、っと」
ミナトがタタタッとスマホをタップし、予定を書き込む。
「オレがそのあとの予定を決めちゃってもいいっすか」
「もちろん。僕、クリスマスイブに誰かとそうやって遊ぶとかしたことないから」
自分でデートの計画を立てたいんだろうな。そう思って顔に笑顔を貼りつけて抹茶オレを飲む。佐藤さんとのデートの練習台にされるのはつらい。だが、ミナトと会えるならそれだけでもいいとも思う。
ため息をついてもう一口飲むと、ミナトはちょっと声のトーンを落とした。まばたきの少ない目でこちらをじっと見てくる。
「先輩、最近疲れてるっしょ。試験ムズかったっすか。笑顔が全然笑ってないっす」
内心ぎくりとしたが、苦笑した。
「試験後に担任の先生と進路の面談があってね。事務所に所属したいから進学しないって言ったから慌てさせちゃったよ。その場で演劇科のある大学を調べてくれて、僕の成績なら推薦で受けられるから考えてみたらどうかって。まあ特進の先生はそう言うよね。大学に合格すれば高校の進学実績になるし」
「演劇とか芸能の世界って、オレ、全然分かんないっす。家族には話したんですか」
「まだ言ってない。二十八日に冬期講習が終わったら言おうと思って。ソータは先生経由でなにか聞いたんじゃないかな。なにか言いたげにこっちを見てるときがある」
「親に言う前に弟先輩に言ったらいいんじゃないっすか。味方してくれそうっす」
「どうだろう。俺より勉強できるんだから進学しろよって思ってるかもね」
するとミナトはうーんと腕を組んでしまった。「ココアが冷えるよ」と言ってから「ミナト君は進路についてはどう?」と話題を変えた。するとミナトが眉根を寄せて唸る。
「笑わないでほしいんすけど……オレ、動物か植物に関わる仕事がしたいんすよね。水族館の飼育員とか庭師とか。自然相手ってたまに残酷だけど、だからこそやりがいを感じられたり、人間相手じゃ見えてこない世界を知ったりできそうで。庭師は資格の勉強が難しいかもしれないっすけど」
洸太はそれを想像した。ペンギン用の餌をバケツに入れて歩くと、ペンギンがわらわらと寄ってくる。笑顔で一匹一匹に丁寧に魚を投げて食べる様子を眺めるのだ。また頭に白いタオルを巻いて剪定ばさみを持つところも想像した。落ち葉を集めていたミナトらしい気がする。思わず笑顔になった。
「ミナト君、ぴったりじゃない? 絵が浮かぶよ。ああいう仕事って繊細な仕事だろうし、ミナト君自身が生き生きとして働いてそう」
「うーん、そんな難しい仕事につけんのかって気もするからホント空想なんすけど……」
難しい顔をしているミナトに思わず言葉が口をついて出た。
「もしよかったら今度水族館に行ってみない? 冬は外の展示が寒いかもしれないから来年でもいいし。ほら、電車で一時間くらいのところにあるから」
言ってしまってからはっとする。その頃にはミナトは佐藤さんとのデートで忙しく、遊んでいる暇などないかもしれない。だが、ミナトは「マジっすか」と笑顔を輝かせた。
「十割ガチな約束をお願いします!」
「分かった。割とマジで行こうね」
ミナトっぽく口調を真似ると、テーブルの向こうから小さなデコピンが飛んできた。
「先輩をそんな口調にさせたの、オレ、反省案件っすね」
「あ、反省案件リターンズ」
「それも先輩っぽくない!」
お互い目を合わせて吹き出した。黙ってマグカップに口をつけて、目だけで笑う。
たまにこうして話すくらい、佐藤さんが許してくれるといい。ミナトとの目線の高さの違いも、向かい席でどちらが奥に座るかということも、コートの袖の内側に手を引っ込めるのが寒くなった合図だということも、いろんなことが理解できるようになった。
ミナトにさようならを言うのは悲しい。もうちょっとだけ、一緒に話したい。もうちょっとだけ、一緒にいたい。せめてクリスマスイブはふたりきりで笑って過ごしたい。