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第8話 文化祭-1

 夏期講習最終日の翌日から新学期がスタートした。だが、ずっと机に向かっていただけの期間とは違い、体育があったり化学の実験があったりと、実技があるのは息抜きになる。


 クラスメイトも同じように感じているようで、体育がある日はみんなどこかうきうきしていた。暑い日が続く九月はまだプールが人気だ。プールのあとの授業では、まどろみがクラスを襲ってくる。


 その中で、洸太は初めての古典の時間をどきどきしながら移動した。前期と同じ席に座ると、懐かしい丸文字がある。


『夏休みなにしてた? こっちはバイトと宿題』


 勉強の質問ではなかった。にやけそうになる口をごしごしとこすってごまかし、「勉強三昧だけど映画を見に行った」と書き残す。すると次の落書きは「①三昧ってなんて読むの? ②映画っていいよね」に変わっていた。


 ミナト君、僕って全然気づいてないな。


 ふふっと笑い、返事を書き込む。


 ふたりだけのやり取りは夏休みのふたりだけの時間を思い起こさせる。強い日差しの中入ったファミレスのクーラー。タッチパネルを操作するたびピッと鳴る音。ドリンクバーでグラスに入れるときにカラカラとぶつかる氷。そして向かい合って広げる教科書や問題集にペンケース。


 その穏やかな時間がそっくりそのまま机の上に閉じ込められている感じがして、ミナトが問題が分からないと眉間にしわを寄せていた顔まで思い出してしまう。


 その日の部活は久しぶりに最初から最後まで通しで行った。ジャージに工具の入った腰袋を下げ、上手かみての舞台袖の梯子をのぼって小さな調光室ちょうこうしつから舞台を見下ろし眺める。舞台中央ではジャージのままの湊太が台本片手に声を張っていた。


 劇は高校三年生の教室が舞台だ。主人公はクラス委員長。高三の秋を迎え、最後の行事について話し合う。クラス毎にやる内容を決めるのだが、主人公のクラスは一体感がなく、「自宅学習でいいじゃん」とみんなが口々に言う。熱い性格の主人公はそれに納得がいかず、楽しめる行事をやろうと促す。だが、それは主人公の自己満足ではないかと指摘する生徒が現れる。


 正しさとはなにか、主人公が葛藤する姿に見る青春と成長の物語だ。


「『どうして分かってくれねえんだよ! 俺のほうが正しいだろ!』」


 怒りを滲ませる湊太の演技を見ていると、胸がどきどきしてくる。


 普段は明るくて友人らとバカもやる湊太だが、この世界では頑固で空回りするクラス委員長。普段爽やかな雰囲気はピリつき、口を開けて笑う顔は情熱と怒りを織り交ぜ、元気な声は鋭く一方的だ。発声一つ、指の仕草一つ、眼差し一つ、どれもが隙がない。


 あんなふうに自分だってやりたい。湊太の演技にはそう思わせる魅力がある。舞台は映画や小説とは違う。頬の産毛がちりちりしてくるような、腹がざわざわとしてくるような、臨場感が洸太の胸を焼く。数メートルかける数メートルの舞台。現実世界から独立した世界が構築される舞台の上では、役の織りなす感情が溢れて輝きに満ちるのだ。


 翌々日、古典の教室に行くと、丸文字が「文化祭ってなにが楽しい?」と尋ねてきた。洸太は「演劇部を見に行くといいよ」と返事をした。




 ミナトと何回か一緒に帰ったあとの九月の連休、文化祭の日になると、朝から教室は騒がしかった。勉強から一日解放される行事は特進のクラスを盛り上げる。ライムグリーンのクラスTシャツをまとうと、みんなのテンションがあがってくるのが分かった。


「コータ、部活の子と回るんだっけ」

「うん。あとで向こうのクラス前で待ち合わせ」

「演劇部は何時からだっけ。また弟が主役やるんだろ」

「二時から。よかったら見に来てね」


 ミナト君、来てくれるかな。


 そう思いながらクラスメイトと別れ、教室を出た。ポップな飾りつけや呼び込みの声が文化祭の盛り上がりを感じさせたが、洸太はひとり図書室へ行った。部活仲間との約束なんてしていない。図書委員おすすめの本紹介を眺め、ミナトがおすすめしている本を本棚に取りに行って席に座る。日本人パティシエが海外に修行に行く小説らしい。文化祭の中でも図書室だけは静かだ。


「寿君、今日はどうしたの」


 ほとんど生徒のいない中で司書教諭が話しかけてきたので、「部活までここで過ごします」と答えた。クラスメイトといると劇が気になることを話せない。部活仲間だと今日の解放感を説明できない。ひとりでゆっくりと落ち着きたかった。


 だが、次第に本を見ていても目が滑って、演劇が始まる緊張に何度もスマホの時間を確認してしまう。


 次の地区大会でよりよいものを披露するために、今日は前回の大会とは少し演出を変えたものを披露する。昨日のゲネプロでは音響とうまく噛み合わず、部員から飛んできた内線の指示にあたふたした。今日こそは成功させたい。


 十三時に全部員が第一体育館に集まった。ニスでぴかぴかの床にずらりと並んだパイプ椅子を見ると気持ちがしゃんとして気が引き締まる。


 台本の書き込みを見ながら細かい部分を打ち合わせし、一時半には調光室に入った。反対側の下手しもての舞台袖には音響室があって、お互い僅かな明かりの下で調光卓やミキサーを操る。だが、その小部屋が舞台を輝かせ、役者の演技をより華やかにするのだ。


「二時より、第一体育館にて演劇部による劇を行います。みなさま、第一体育館にお集まりください」


 校内に流れる放送が聞こえてきて、みんなが笑顔で親指を立てて合図を送り合う。高揚した気分のまま小部屋から客席側を眺めていると、人が集まり始めた。体育館の入り口で部員が入ってくる人たちにプログラムを手渡し、席へ誘導する。演劇部がそれなりに有名なのもあり、文化祭では近所の人が演劇だけを見に来ることもあるし、演劇部の中学生が来ることもある。


「照明、準備できてる?」


 内線の声に「心の準備もね」と返すと向こうが笑った。洸太は後輩と黒い調光卓の前で椅子に腰かけた。目の前のボタンを押すだけで舞台にライトが落ちる。朝なのか夕方なのか、楽しい時間なのか悲しい瞬間なのか、世界の色を支配するのだ。


 ざわざわと人が集まってくる音がする。どきどきする心臓に胸を当て、大きく息を吸う。


「コータ」


 小部屋の下から声がして、そちらを覗き込んだ。ブレザーにネクタイの制服を着た湊太がグーの左手を突き出してきたので、グーではなくパーを出した。湊太がおかしそうに笑う。だがすぐに湊太は真剣な表情で舞台を見つめて、洸太はきりっと顔をあげて調光卓を見た。スイッチを押し、灯るランプを目に焼きつける。


「これより、演劇部による演劇を開始します」


 影アナの声に体育館が拍手に湧く。小窓から客席を見れば椅子は満席で、壁に沿って立ち見客もいる。開演のベルにぶわっと頬の産毛が立つのを感じる。この瞬間だ。緞帳どんちょうで仕切られた新しい世界の幕が上がる。


 洸太は台に指を滑らせた。

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