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第2話 落書き

 翌日以降、金髪プリンは移動教室など廊下で会うたび、「ちす」と声をかけてくるようになった。言葉遣いはさておき欠かさず頭を下げてくるところは律儀で、梅雨が明けて日焼け止めが必要になる頃には、洸太は彼に見下ろされても怖くなくなっていた。


「佐藤さん、案外いないっすね。隣のクラスの佐藤は男子でした」

「そっか。でも将来の夢だし、焦らなくてもいいんじゃないかな」


 洸太がそう返すと、彼は「そっすよね!」と明るく笑顔を見せ、「次こそ報告するんで!」とこぶしを握って意気込む。洸太が笑いをこらえて教室に戻ると、クラスメイトに「最近あの一年と仲良いな」と笑われた。


「懐かれちゃったっぽい。ヤンキーかと思ったら全然違う。おもしろい子だよ」

「ひょろっとしてるけどでかいよな。バスケ部とか?」

「それは知らない。でも集団から頭が出てるよね」


 すると彼は「ふうん」と気のない返事をし、「まあ部活はやってないかもしれないしな」と続ける。


 特進科で部活に入る子は珍しい。演劇部でも特進の生徒は洸太だけだ。学校の勉強だけで有名大学を目指すことが目的で設置されている特進科では、放課後も自習室や家で勉強や宿題に精を出す生徒がほとんどである。


「それより、次は移動教室だぜ。早く行くぞ」


 友人に声をかけられて洸太も古典の教科書やノート、電子辞書を持って特別教室へ行った。いつもの席に座ると、真っ先に机の上を確認する。


『連用形と連体形ってなにが違う?』


 やはり一言質問が書いてある。学校の備品は大切に使いましょう。小学校から耳にたこができるほど言われた言葉が蘇ったが、洸太は返事を書くためにいそいそとペンケースからシャーペンを取り出した。




 丸文字の落書きが始まったのは四月の下旬だった。この高校ではいくつかの科目が習熟度別、つまり学力別にクラスが分かれて授業が行われており、国語の古典もその一つだ。


 だから、古典のときは必ず移動教室で、特別教室で授業を受ける。そこの机に「古文だるい」という五文字を見つけたときは、これを書いた子は苦手なクラスの子なのだろうと当たりをつけた。


 だが、その言葉の横に木の絵が三つ三角形に並んでいて、それが国語科の教師の森先生を指しているのだと分かった瞬間吹き出してしまった。洸太が去年一年生のときに教わっていたのもその教師で、なにかしゃべった最後に必ず「ね!」をつける。


「つまりここは命令形ってこと。ね!」


 授業も分かりやすく生徒から人気なのだが、授業そっちのけで「ね」の数を数え出す生徒は出てくるわけで、特進で進度が速い洸太のクラスでは四十二回を記録した。洸太はその先生の授業が好きだったのだが、「だるい」と感じている生徒もいるようだ。


 洸太は初めての落書きの横に「森先生の授業おもしろくなるよ」と書き込み、その日の授業を終えた。二日後同じ席に座ると、丸文字の落書きは消されていて、新たに「活用ってなに?」という質問に変わっていた。


 週に二回、机で一つだけ質問をし、質問に答える。いつの間にかその習慣が定着した。


 相手は分からないが、初歩的な質問が多いので一年生だろう。丸文字の筆跡は女子っぽさもあるが、繋げ字にせず一文字一文字バラバラに書くのは男子っぽい気もする。湊太もそのタイプだ。


 右手で頬杖をつきながら台本にメモを書き込む湊太を連想し、洸太は気持ちを引き締めた。七月考査も近いが明日は地元の大会だ。公欠を取って大会に出る。演劇部というと文化部で意外と思われがちだが、ちゃんと大会がある。まずは文化祭後の県大会でその上に進むことが目標だ。昨日は背景のパネルにぐらつきが見つかって、裏方の洸太はずっとトンカチを振るっていた。おかげで今日は腕が筋肉痛だ。


 放課後になると舞台裏から校庭へ荷物を運び出し、日差しの中、汗だくになってトラックに詰め込む。翌日の市民ホールで行った劇は無事予選を通過した。全員ほっと一息つき、笑顔でハイタッチをする。


 このあとは試験前で部活がなくなり、再び演劇部が始動し始めるのは九月だ。夏休み中、特進科はお盆以外毎日夏期講習が入っている。




 蝉時雨とともに夏休みが始まる。部活という気晴らしがない期間は、うだるような暑さもあってやる気がしぼむ。リビングで棒アイスをくわえる湊太の「行ってらー」という言葉に押され、制服の洸太は額に浮き出た汗をタオルハンカチで拭いながら登校した。普通科の湊太は夏期講習がない。


 ところが、夏期講習二日目の古典で特別教室に移ったとき、洸太は目を丸くした。また丸文字で質問が書いてあったからだ。


『①何行何段活用ってどうやって分かる? ②動詞と助動詞の切れ目が分かんない』


 この時期に学校で勉強しているということは、この丸文字一年生は特進科の子なのだろう。カーディガンを着た洸太は教師が来る前にささっと書き込んだ。


『①活用表の仕組みを理解しないと難しい。先生に聞いて。上一段と下一段は暗記 ②助動詞は現代で言うところの「歩きます」の「ます」』


 もっと詳しく書こうと思ったが、それでは机を目一杯使ってしまう。しかたなく回答はそこまでにした。だが、翌日も質問の続きが書いてある。


『①変格活用は暗記? ②助動詞って「です」とか「らしい」とか?』

『①暗記 ②正解』


 一週間ちょっとやり取りは続いたが、八月に入ると質問はなくなった。どうやらなんとなくできるようになったようだ。なにも書いてない机を見ると、ほっとするような寂しいような気持ちがした。


 特進の子たちは受験勉強に熱心で部活の話はできないし、他科の部活仲間に特進の勉強の大変さを愚痴ることはできない。どっちへ行っても深呼吸できない。どちらにも行き場がない洸太にとって、内緒の文通相手は所属を気にせず秘密を共有しているような、どこか心安らぐ相手だった。


 ミーンミンミン。冷房の効いた教室の中にも蝉の元気な声が忍び込んでくる。長い前髪がクーラーの風に揺れ、手ですいて直す。窓の外を見ると、バカみたいに青い空にお手本のような入道雲が浮かんでいた。夏の空を見ると、子どもの頃を思い出して少し嫌な気持ちになる。


 洸太たち兄弟が演劇部に入っているのは親の趣味の影響だ。両親が舞台が好きで、演劇はもちろん、ミュージカルや歌舞伎などさまざまなジャンルの公演に洸太たちを連れて行くのが習慣だった。


「ねえ、君たちいくつ? そっくりだね。双子なのかな」


 夏休みの観劇終わりにホールでトイレに行った父親を待っていると、洸太たちは男性にそう話しかけられた。


「お芝居は好き? やってみたいと思ったことはある?」


 それがいわゆるスカウトだと分かったのは暫くたったあとだった。劇団の副座長だという男性と両親が話を進めるのを聞いて、幼いながらもなにを話しているのかをぼんやりと察した。次の芝居に子どもの役がある。そのオーディションを受けてみないかと。


 あとから聞くと、洸太たちの外見がその役のイメージにぴったりだったらしい。母親譲りの大きな目がよかったのだという。


 結果、湊太が合格し、洸太は落ちた。元々明るく愛想のいい湊太は大人からもかわいがられるタイプだ。一方の洸太はオーディション会場のぴりぴりとした空気に呑まれ、母親のうしろに隠れて部屋に入った。それを見たテーブルの真ん中に座る髭を蓄えた男性が言ったのだ。


「あの子はダメだね」


 小学校にあがる前だったが、「ダメ」の意味くらい分かった。一年後、洸太は舞台の上で演技する湊太を座席から見る役になっており、なんとなく自分の生き方を理解した。親が自分の機嫌をとろうとしているのを察し、幼いながらも気にしていないふうを装うようになった。


 救いだったのは湊太が自分たちに優劣をつけず、変わらずコータコータとちょろちょろとつきまとい、ふたりで遊ぶ時間があったことだろう。


 家でセリフの練習をする湊太に付き合っていると、洸太は次第に演劇に魅了されていった。役者にはなれなかった。きっとこれからもそうだろう。それでも、自分ができる形でなにかやってみたい。


 小学校のクラブ活動で演劇クラブに入り、裏方の大切さを知った。


 演劇は衣装や舞台、光や音響、その他どれをとっても成り立たない。演劇は総合芸術だ。自分もその一部に関われると昔の夏を忘れられる気がした。


 洸太は中学でも演劇部に入ったが、一方の湊太は小学校卒業と同時に子役をやめた。


「俺、サッカーがしてえから」


 その言葉の通り、放課後の湊太はボールを追いかけるようになった。だが、今度は家で台本を眺める洸太が湊太の役者魂に火をつけた。


「コータ、一緒に演劇部がある高校に行こうぜ。俺、また役者をやりてえ」


 一緒の言葉を聞き、万人受けする爽やかな湊太と逆を行くよう、洸太はシャツの襟や目にかかるくらい髪を長めにして黒縁の伊達眼鏡をかけた。


 湊太が主役なら自分は黒子。湊太が初めてオーディションに受かってからはそうやって過ごしてきた。野暮ったい地味な演出も振る舞っていれば自然と体に馴染む。そうやって舵取りをして重圧を乗り切ってきた。


 元々本を読んだり映画を見たりとひとりで遊ぶことも好きだったから、黒子でいることも自分に合っていた。演劇部では、部活中は活発でも教室では大人しいという生徒も多い。洸太はただ部活中でも大人しいというだけだ。


 湊太が演劇から離れたのは中学の三年間だけで、高校では揃って演劇部に入部した。一卵性双生児だとなにかと注目されるが、湊太が役者をやりたがり洸太が裏方をしたがると、周りも次第に「違うタイプなんだな」と理解してくれる。


 湊太は楽観的でさっぱりとした性格だ。自分がオーディションに受かったことを鼻にかけることもないし、特進に入れなかったことで卑屈になることもない。


 どうしても比べられがちな自分たちを比べる必要などないのだと、湊太が一番理解している。そして、その湊太にどこかうしろめたく思っている自分が一番自分たちを比べている。


 校庭のサッカーゴールの網が風に揺れ、土埃が舞う。


「寿君、問三の答えを黒板に書いて」


 教師に指され、洸太はノートを持って立ち上がった。

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