隼人を見ると嬉しい気持ちになってたのに、今は顔もみたくなかった。私に一生愛人でいろと言った下衆な男だ。
「隼人、もう別れたい」
「なんで、また、そんな事言うんだよ。マンションの名義もルリにしたから。部屋に入った事を怒ってるのか? 確かに、もう一本ある合鍵で勝手に入ったけれど、こんな風に1人倒れた時の為にやっぱりこの鍵は渡せないよ」
私は隼人の言葉から、瑠璃が彼に別れを切り出したのだと悟った。きっと、私の人生を軽蔑したのだろう。私は自分で隼人に別れを告げたかった。
「出てってくれない? 体調が悪いのが見ればわかるでしょ! いつも笑顔で迎えられる訳じゃないの」
私は溢れる涙を見られたくなくて両手で顔を煽った、
「体調が悪いなら医者を呼ぶし⋯⋯」
「いらない、隼人が私にできるのは私の前から消えてくれる事だけ⋯⋯」
私の言葉に隼人が息を呑んだのが分かった。いつも一番綺麗な姿を彼には見せてきた。どうせ彼は綺麗な愛人の私が欲しいだけだから、ボロボロの私を見たら直ぐに手放すだろう。
隼人が合鍵を床に置き無言で部屋から出ていくのが分かると、私は虚しさで涙が止まらなくなり泣き疲れて寝てしまった。
(さよなら、私の王子様)
目が覚めると頭痛と気持ち悪さが抜けていた。よせば良いのに私はまた小瓶の錠剤に手を伸ばしていた。あちらの世界に行った時は、精神的に安定して電車にも乗れてお酒も呑んだ。もう一度だけ交代して、これから自分1人で生きていく自信をつけ、突破口みたいなものを見つけたかった。
再びもう一つの世界に来る。
『飛行機に乗って仕事をする』
私がそれを達成できれば、確実に自信につながる。私は徹夜でマニュアルを丸暗記し、TKL航空とCAの仕事について徹底的に調べた。
早朝予定通りに迎えに来たタクシーに乗り込み羽田空港に向かった。関係者入り口から入り、廊下を歩いてロッカールームへ行く。自分の名前のネームプレートのあるロッカーを開こうとすると突然話しかけられた。
「ルリも今からフライト? そのワンピ、ブランドものだよね? ボーナスで買ったの? やっぱり自分へのご褒美がなきゃやってられないよね」
「う、うん⋯⋯」
私は今着ている服を値札を見ずに買ってしまった。隼人の恋人になって、いつの間にか自分の金銭感覚が狂っていたようだ。節約体質だったはずなのに、いつの間にか隼人の気を引くことが優先でお金を湯水のように使うようになっていた。隼人が私に渡したブラックカードで幾ら使っていたのかさえ私には分からない。この世界の瑠璃が必死に貯めただろうお金を勝手に使ってしまった事に今になって気がついた。どうして自分がこんな自分の事しか考えていなかったのかにゾッとする。長い事、働いてなくてお金の大切さを忘れてしまった。ファミレスで千円ちょっとの時給で働いて、昼はおにぎりを頬張っていた。お金を稼ぐ大変さを私は経験していたはず。それなのに、今の私はモノに金額があった事さえ忘れてしまった社会不適合者。ここにいて、航空会社の制服を着ている人は皆働いて社会に関わっている。
落ち着いていたはずの心臓がなぜか強い鼓動を打ち出した。
(大丈夫、マニュアルは覚えた。今、私は入社7年目の森本瑠璃! 無職で男に飼われてるルリじゃない)
紺色の制服に袖を通し、スカーフを首に結ぶと気が引き締まった。
そのままカートを引き攣って、プリブリーフィングをやる会場まで到着する。
だだっ広い空間で沢山の同じ制服をきた人たちがいた。私は早朝勤務は軽食がついているということで、大きな冷蔵庫の前まで行き食べ物を手にとる。口にかきこんだものが、何だったか分からないくらい緊張していた。
次に黒い画面のところまで行き、今日のフライトについてメモする。何時にどの辺りを通過するかのチェックだ。
(CUEは大津だったよね⋯⋯)
今日、一緒にフライトするメンバーが座っている長テーブルまで行く。フライトメンバー表は一番上がチーフパーサーで基本入社年次順。私の名前は上から二番目だから、今日はかなり若いメンバーで飛ぶのだろう。
(私、先輩だ! しっかりしないと⋯⋯)
メンバーが揃ったところで、本日のチーフパーサーの林さんが口を開いた。
「皆さん、本日は宜しくお願いします。本日沖縄は荒天で、着陸は揺れるかもしれません。細川さん、タービュランス発生時に気をつけるべき7項目を言ってください」
テレビドラマの航空会社のCAは和気藹々と華やかだった。実際は全く違う。飛行機に乗る前のプリブリーフィングの段階で、空気が張り詰めている。働くことは甘くない。
細川さんという子は、突然質問されたことに緊張しているのか焦って答えに手間取っていた。
「答えられないのですか?」
林さんの鋭い声に細川さんが困っている。唇が震えていて怯えている彼女を助けてあげたい。
「私が答えます」
私は暗記した7項目を、その場で言い始めた。
「ちょっと待ってください。私は森本さんではなく細川さんに聞いているんです」
全てを言い終わらない内に、林さんが私を止めてくる。
「突然頭が真っ白になる瞬間は誰にでもあると思います。突然の出来事で誰かが困っていたら助け合えば良いのではないですか?」
私の言葉に一瞬みんなが目を丸くしたのが分かった。
すると制服を着ていない管理職のような女性が私たちの机のところに小走りで来る。
「森本さんの言う通りです。緊急時、私たちが協力し合い乗客の安全を守って行きましょう」
その方の一声で、周りが深く頷きだしその場はおさまった。
機内に移動すると、先ほどの細川さんが声を掛けてきた。