大学入学してすぐの4月、私、モリモトルリに友人も家族も失うような出来事が起こった。
あの時の彼と付き合わなければ良かった。何度、後悔しても過ぎた時間は戻って来ない。
私は有名な心理学者である森本正義の一人娘として厳しく育てられた。父は私に自分と同じように学者になって欲しいと考えていた。高校の第二外国語をフランス語にしたのは、父が学会はスイスのジュネーブでやる事が多いからフランス語を学べと言ったからだ。私は父の操り人形で何一つ自分で選ばせて貰えない人生に虚しさを感じていた。
大学では第二外国語に中国語を選択した。父に強制される事なく、自分で選択した科目だ。私は大学生になれば、少しは自由になれるのかもと期待していた。
私には小学校からずっと仲の良い友達が3人いた。
百田美香、伏見佳奈、そして槇原真智子だ。
美香と佳奈は私と同じように内部推薦でそのまま大学に進学した。高校は女子校だが大学は共学だ。私たちは、大学に行ったら恋人ができるかもしれないと夢見るスーパー彼氏についてよく語り合っていた。槇原真智子だけは、国立大学の理系の学部に進んだ。浮ついた話には全く乗ってこない彼女は人生を賭けてやりたい研究があるらしい。私は父親のマリオネットである自分に比べて彼女を眩しいと思っていた。
♢♢♢
大学に入っても私は美香と佳奈と相変わらずつるんでいた。
「今日は、テニスサークルの新歓に行ってみない? ルリずっとテニスやってたじゃん」
美香が明るい声で私を誘ってくる。彼女は大学生になってからピアスも開けて、髪も染めた。
私もやってみたいが、父が絶対に許してくれないだろう。
「18時までに終わるかな? 家に必ず20時までには帰らないと⋯⋯」
大学から家まで1時間半はかかる。おそらく1分でも門限を過ぎると大変になことになるから、電車の遅延のリスクも考え2時間前には大学を出たい。
「相変わらずルリの家は厳しいね。一人暮らしすれば良いのに、気楽で楽しいよ」
佳奈は大学生から一人暮らしを始めた。
私も一人暮らしをしてみたいが、父の許可が降りる訳がない。
一人暮らしがしたいなどと言っただけで、「何が目的だ! 男でも連れ込むのか? こっそり遊ぶつもりだろう!」と問い詰められるのが目に見えている。
「大学卒業したら、流石に一人暮らしをしたいかな⋯⋯」
私は実現しないような夢を語った。
結婚して家を出るまでは、あの家から逃れることはできないだろう。
父は管理できない場所に私を置かない。
私は久しぶりのテニスに汗を流し、新歓コンパに行くというみんなから離れて帰ろうとした。
大学の門を出て駅まで歩こうとした時に、肩を掴まれ振り向かされる。
私が驚いて振り向いた先には、金髪に背の高いチャラそうな男が立っていた。先程のテニスサークルにいた人で、周りの子が彼を見てカッコ良いと騒いでいた。私は確かに見た目は整っているけれど、どこか怖い感じがする人だと思った。
「ルリちゃん、駅まで一緒に行こう?」
「えっと⋯⋯テニスサークルにいた方ですよね」
「須藤聖也です! 今日、ずっとルリちゃんの事を可愛いなって思って見つめていたんだけど気が付かなかった?」
「すみません。気が付きませんでした」
私が頭を下げると、急に手を繋がれる。
そのような事をされた事がなくて動揺した。
「あの、手⋯⋯」
「駅まで送るって言ったでしょ」
急に手を繋いでくる彼を怖いと思った。
その直感に従って手を振り払い逃げていればと、何度後悔したことか。
駅の改札前にきて、手を離されてようやっと解放されると安堵した時だった。
突然、須藤聖也は頭を下げて私に手を差し出してきた。
「モリモトルリさん。あなたに一目惚れしました。俺と付き合ってください!」
私は動揺した。
行き交う人が皆、私たちに注目している。
私は彼のことを名前しか知らないし、別にときめいてもいない。
「すみません。私、須藤先輩の事はよく存じ上げませんし、お付き合いは⋯⋯」
断ろうとしたら急に引き寄せられて抱きしめられた。
「これから知ってよ! 知らないから付き合わないなんて言わないで! お試しで良いから付き合って! こんな気持ちになるの初めてなんだ⋯⋯」
耳元で囁かれてなんだかゾクゾクした。
正直、彼と付き合いたいとは全く思っていなかった。
私の理想は、顔見知りから友達になり、少しずつ意識し始めて、友達期間があってからお互い好きだと判明しカップルになる物語のあるお付き合いだ。
「すみません。離してください。それに、ここ人通りもあるし通行人の迷惑に⋯⋯」
「俺と付き合うって言ったら、離してあげる」
「⋯⋯」
私は困り果てていた。
とりあえず、ここは付き合うと言って拘束を解いて貰おうと思った。
「分かりました。付き合います⋯⋯」
「やった! これからも、よろしくね。ルリ!」
彼が顔を近づけてくるので、私は思わず避けてしまった。
「結構、今のショックだわ⋯⋯」
低く冷ややかな言葉で言われて、私はまじまじと彼の顔を見る。
すると、ニコッと笑われて彼は怒ってはいないのだと安心してしまった。
「じゃあ、行こうか!」
彼は再び私の手を引くと、どこかに連れて行こうとした。
「待ってください! 私、門限があるので帰らないと!」
「30分だけだから、少し話そう」
「30分だけなら⋯⋯」
強引に連れて行かれたのは、駅から近いカラオケボックスだった。
私の手を引いている須藤先輩を見て、受付の人が笑っている。
私はカラオケボックスに来るのが初めてで、個室に入るなりどうして良いか分からなくなった。
「飲み物何が良い?」
「私、本当に時間がなくて、特に飲み物いらないです。今時の歌とかも知らないので、歌えません」
「別に歌わなくても良いよ。そんなに緊張しないで」
「は、はぁ⋯⋯」
私は早く帰りたかったが、先輩が私にオレンジジュースを注文したようで飲み物が来てしまった。
「まぁ、飲み物でも飲んで、リラックスして」
私は口を一口もつけないのは失礼だと思い、オレンジジュースを一口だけ飲んだ。
「今、どんな気分?」
須藤先輩の質問の意味が全く分からない。
「なんか、頭がぼーっとします。今日は、私、もう帰ろうか⋯⋯と⋯⋯」
私が飲んだのは実はお酒だったのか、何か薬が入っていたのか分からなかった。何も考えられないくらいに、意識が朦朧とし始めた。