私は突然の出来事に混乱して、跪いて床にばら撒かれたお札を拾い始める。
「あっ、あの⋯⋯すみません⋯⋯」
「ふふっ、惨めね。やっと自分の立場が分かった? あんたなんて真咲の遊び相手の一人に過ぎないのに、勘違いしているみたいだがら身の程を分かってもらおうと思ってたのよ。別にこれからも彼の性欲処理係をしてくださって構わないのよ。私にも恋人は沢山いるしね」
私は大河原麗香がルリさんを馬鹿にする為に、意地悪で呼び出したのだと気がついた。ルリさんの世界は本当に私の出会った事のないような人間を連れてくる。
私の周りには割と気が強い女が多いが、このような下品な嫌がらせを公衆の面前でするような女はいない。悪いが私は女の世界で揉まれてきた人間なので、この程度で泣いて逃げ帰ったりはしない。私は立ち上がり、彼女を挑戦的な目で見据えた。
「そうなんですか。その程度のルックスと下品で意地悪な性格で恋人が沢山いるなんて、きっと皆さん麗香さんのお金目当てなんでしょうね」
私の言葉に大河原麗香が目をひん剥くのが分かった。
「あんた! 誰に向かって口を聞いてるの?」
「真咲隼人の婚約者の大河原麗香さんです。女遊びと男遊びの激しいお似合いカップルですね。私は真咲隼人とは別れましたよ。政略結婚とはいえ、あんなチャラい男と結婚できるなんて凄いです。貞操観念のかけらもない安っぽい女性だからこそ似たもの同士で耐えられるんでしょうね」
大河原麗香さんは、私の反撃が予想外だったようでワナワナしている。
「モリモト様、その辺で⋯⋯」
隣にいた弁護士バッチをつけた男性が私を止めに入った。
「弁護士の飯塚さんでしたよね。私は内容証明にあった通り、直接謝罪をし慰謝料300万円を用意し支払いをしました。確認して頂ければ分かりますが、真咲隼人とは既に別れていて直接会うことは今後ありません。今回の呼び出しは、内容証明を使った嫌がらせですか? 今、私は水をかけられ、割れたグラスで怪我をしました。それらの大河原麗香さんの暴力行為に対する損害を請求しても宜しいでしょうか?」
「何なの? あんた!」
大河原麗香は手を振り上げ私を叩こうとしてきたので、私は彼女の手首を掴んでその手を上に捻り上げた。
「皆様、午後の憩いの時間のお邪魔をしてしまい申し訳ございませんでした。お店のグラスはクリスタルのブランドもので、一個5千円はしますね。この品位はないけどお金だけはある大河原麗香さんが責任を持って弁償するそうです」
私の言葉に少しの笑い声と共に、パラパラと拍手が湧き起こる。
「もう、何なのよ! 変な女!」
大河原麗香は私の手を振り解くと、店外へ走っていって出ていった。
広いホールを見渡すと、店員が20代半ばくらいの薄茶色の髪をした若い男性の1人しかいない。ハーフかクウォーターなのか、色白で彫りの深い顔をしている。
私はその店員の男性に小走りで近づいた。
「お騒がせして申し訳ございませんでした。宜しければ、ダスターを貸して頂けますか? 掃除をしたいので」
「えっ? そんなの俺がやりますよ。お客様は座っていてください。とんだ災難でしたね。足の怪我大丈夫ですか?」
「いえ、ちょっと切っただけなのでご心配なく! ご迷惑をお掛けしてしまいましたし、今、店員さん少ない時間ですか? 人手が足りてないですよね」
「ハハッ、実はそうなんです。僕は店長の柏木と申します。今日は他の従業員が皆、感染症でダウンしてしまって休みで僕しかいないんでアップアップです」
「店長さんは体調は大丈夫ですか? よければ今日はお手伝いさせてください。接客経験はあるので少しはお役に立てるかと思います」
私はばら撒かれたお札をかき集めて封筒に入れ直し、ダスターで床を掃除した。
お札は部屋に戻ったら床に広げて、アイロンで乾かした方が良いだろう。
結局、店が閉まる20時まで私は柏木さんと二人で店を切り盛りした。
「ルリさん、閉店まで本当にありがとうございます。本当に助かりました。これ、今日の分のお時給です」
「給与を貰う訳にはいきません。今日はご迷惑をかけたお詫びをしただけですし、雇用契約もしていないのにこういうお金のやり取りは控えさせて⋯⋯」
私が言い終わらない内に、柏木さんに肩をガシッと掴まれる。
「じゃあ明日から、ここで一緒に働きませんか? 僕、ルリさんの接客に感動しました。高級ホテルみたいな丁寧さでお手本にしたいんです。それに英語だけでなく中国語もペラペラなんですね。最近、インバウンドのお客様が増えてきたので助かりました」
私はじっと見つめてくる柏木さんのキラキラした瞳を見つめ返した。
彼は私より年下だが柔和な性格をしていて、彼が店長なら働く環境としては悪くない。今、モリモトルリは無職で、履歴書も書こうにも大学中退ということしか情報がない。
「あの、私で良ければお願いします」
私が頭を下げると、急に柏木さんが柔らかく抱きしめてきた。
(えっ? ハグッ?)
私は驚いてしまって手で彼を押してしまう。
「すみません。ちょっと癖でついハグしちゃいました! フランス人の祖母が感情が高揚するとこうして抱きしめて来るんです⋯⋯」
焦って言い訳をしているような柏木さんに思わず吹き出してしまった。
「そうなんですね。ちなみに私、フランス語もできますよ。お役に立ちますか?」
「本当ですか? 僕も少しですがフランス語を話せます。今晩は良ければ家まで送らせて貰えませんか? こんな遅くに一人で家に帰すのは心配なんです」
私は柏木さんの好意に甘える事にした。これから一緒に働く同僚として、少しでも仲良くなっていた方が業務が円滑に進むからだ。
彼の白い外車に乗り込む。
この年で銀座のカフェの店長をしているのだから、しっかり者なのだろう。若いのに運転も落ち着いている。
「白金のあのタワーマンションに住んでいるなんて、凄いですね。最上階のペントハウスなんて30億とか聞きますよ」
最上階に住むのは真咲隼人だ。彼は自身が起業したジュエリー真咲だけでなく、財界に大きな力を持つ真咲グループの御曹司。30億も彼にとっては大した額ではない。
「店でのやり取りを見ていて知っていると思いますが、私、真咲隼人と付き合っていました。マンションは彼からのプレゼントです。軽蔑しますよね。不相応で居心地も悪いので引っ越すつもりです」
男からマンションをプレゼントされるのを「凄い」と思う人もいるかもしれないが、私は恥ずかしいと感じる感性を持っている。
「ルリさんは悲しい恋をして沢山傷ついたんですね。その傷を僕が癒してあげたいな」
私は柏木さんに言われて、ルリさんが真咲との関係に苦しんで私と人生を交換したがった可能性に気がついた。
(もう一人の私が私と同じような感性を持っていたら、相当苦しいよね⋯⋯)
タワーマンションの前に到着する。
「ルリさん、連絡先交換しましょう。それから勤務ですが、明日の11時に早速開始する感じで良いですか?」
「はい。宜しくお願いします。店長」
私は柏木さんと握手をして別れた。
マンションの中に入ると、ロビーの革張りの黒いソファーに足を組んで真咲隼人が座っていた。彼は私の姿を確認するなり立ち上がる。黙って私のカバンを掻っ攫うと、強く手首をつかみ私を引っ張ってエレベーターホールの方にズンズンと歩き出した。