明らかに傑が戸惑っているのが分かる。
私の家の事情を知っていたら、私が他の男と過ごすような時間を捻出できる訳がないと思っているのだ。
実際、傑とデートするときの場所も時間も全て父親に事前連絡し許可をとらなければならなかった。
「えっ? パイロットなんですか? すごーい! 年収3千万とかですよね?」
傑の浮気相手の桃華さんは既に園田機長をロックオンしていた。
媚びたような上目遣いをしているが、園田機長には全く効かないだろう。
彼はしょっちゅう女性からロックオンされているが、靡いたのを見た事はない。ルリさんが例外だっただけだ。
「俺の年収なんて君に関係ある? 隣の男を離さない努力をした方が良いよ」
「私、本当に冴島さんとは結局ヤってないんですよ。今日は誤解を解けとか言われて、もうここで4時間近く待たされたんですよ」
軽薄を絵に描いたような桃華さんと、そんな女と浮気をしようとした傑に幻滅する。
「そうですか。お疲れ様です。では、傑を連れて、もう帰ってくれて構いませんよ。婚約破棄の慰謝料も請求しません。もう二度とお会いする事はないでしょう」
「慰謝料? そんなもの払う訳ないでしょ。というか、彼女さんも少しは自分を顧みた方が良いですよ。10年付き合って2回しかヤらせないで、しかも冷凍マグロってヤバイですから」
桃華さんは言い捨てとばかりに私を侮辱してきた。
私は真昼間から傑に抱かれる事に、かなりの背徳感を抱きながら決死の覚悟で臨んだ。
親への罪悪感でその後吐きそうな程に苦しんだ行為を、面白おかしく他の女に語っていたことに絶望する。
隣を見ると園田機長が仕事中のような無表情で傑と桃華さんを見据えていた。
私は園田機長の前で恥ずかしい事を言われ居た堪れなくなった。
「それ、彼が下手クソ過ぎて固まっちゃってただけでしょ。森本さん、俺の前ではかなりの魔性の女っぷりだったけど?」
園田機長の言葉に、一瞬にして空気が凍りつくのが分かった。
(なんで、そんなこと言うの? 記憶がないって伝えたのに)
「下手くそ過ぎってやばっ! 反応が薄いの彼女のせいにしてた系? 慰謝料とか変な話が出てきたんで私はここで失礼しますね」
桃華さんは吹き出しながら、駅の方に蹄を返して走っていた。
傑は羞恥で真っ赤になり、フルフルと震えている。
「瑠璃、お前さ⋯⋯浮気してたの?」
私は何と答えていいか困っていると、すかさず園田機長が余裕な笑みを浮かべながら口を開く。
「森本さんは浮気なんてしてないよ。彼女がどれだけ真面目な子か付き合ってた君が一番知ってるんじゃない? ただ、彼女が魅力的過ぎて俺の心が囚われちゃったってだけの話」
「人の婚約者に手を出すのやめてくれませんか? 俺、瑠璃と来月結婚するんです」
傑がどうして私との結婚に執着するのか理解できない。
彼自身が私の家を面倒だと侮辱し、「アラサーの私は自分を逃したら誰もいない」と言って私の足元を見てきた。そこまで私を蔑んでいた相手と結婚したいとは思わない。
「だから、傑とは結婚しないって言ったでしょ。私に見つからなきゃ、桃華さんと浮気していたんだよね。もう、傑のこと信じられない。自分の実家と職場には破談になった事自分から説明して!」
「なんで、そんな冷たいんだよ。俺たちの10年間ってなんだったんだよ」
「それはこっちの台詞だよ。もう関わりたくないからバイバイ。今度家に来たら警察呼ぶから」
私は咄嗟に園田機長の手を引き、家の中に入り鍵を閉めた。
私は外を覗き見て傑が去るのを待つ。
「森本さん、大丈夫? 逃げたいことがあるなら俺のところに来ない?」
「大丈夫です。私には心配されることなんて何もありません。今日は送って頂きありがとうざいました」
全てを察しているような園田機長の言葉に私は恥ずかしくなった。
彼は本当に優しい人なのだろう。
記憶がないと言う私を心から心配し、明らかにおかしい親からの電話を聞いて私に同情してくれている。
「森本さんは何でそんなに俺を拒絶するの?」
彼の質問に心臓が止まりそうになった。
そんなの彼が惹かれたのが私ではなくルリさんだからに決まっている。
でも、そんな事を言えるはずもない。
「同じ会社の人とか考えられないんで。これからも仕事仲間として宜くお願い致します」
顔が見えないよう深く頭をさげ、彼を扉の外に見送った。
部屋に戻ると私は言いようもない虚しい感情に襲われた。
10年もの間付き合った男は本音では私を馬鹿にしていた。
憧れていた男は難攻不落かと思えば、一晩でもう1人の私に落とされたらしい。
「なんか、もう疲れた⋯⋯」
1人ベッドに寝転がると、真っ白な天井に美しいルリの姿が映った。
「何が疲れたの? 森本瑠璃! あんた随分好き勝手やってくれたわね」
「えっと⋯⋯もしかして、真咲隼人と別れた事を言ってるんですか? でも、アレはまともな恋人関係じゃないから別れた方が良いと思いますけど⋯⋯」
私の言葉に天井に映ったルナの顔が険しくなった。
「何も知らないくせに⋯⋯そういえば、瑠璃。あんたって大学時代に須藤聖也(せいや)とは付き合ったの?」
突然のルリの質問の意味が分からなくて戸惑った。
「須藤聖也? 誰ですか⋯⋯?」
名前に聞き覚えがある気がするが思い出せない。
おそらく挨拶をするくらいの間柄の人かもしれない。
「テニスサークルの新歓コンパに行かないで一人帰ろうとした時に、駅まで、ついてきて彼に告白されなかった?」
私の中で一つの記憶が蘇った。
高校まで女子校だったが、エスカレーターで上がった大学は共学だった。
いつもの仲良しメンバー3人で参加したテニスサークルの体験。
テニスをした後、飲み会があると言われたが私は参加する訳には行かなかった。
大学生が18歳からお酒を飲んでも、法律的には20歳からが基本。
それに私の家の門限は20時。法令と家のルールを遵守すべきと判断した私はサークルの体験に参加後、新歓に参加せず一人帰ろうとした。その時に自分も一緒に帰ると申し出てきたのが当時大学三年生だった須藤聖也だ。
私は彼に駅まで送られ改札前で「付き合って欲しい」と言われた。
彼は見た目こそかっこよかったが、いかにも遊んでいそうな危険な雰囲気を察知して断った。
「アレって告白なんでしょうか? 付き合って欲しいみたいに言われましたが、私を好きな訳じゃなくて遊びたいだけに見えたから断りましたよ。もしかして、ルリさんの世界にも須藤先輩がいたんですか?」
「知らない⋯⋯あんな男忘れたし。それより、森本瑠璃! 私と人生を交換しなさい。真咲隼人に対してした事、私は許さないから」
「ダメです。明日は仕事があります。まあ、フライト二本で日帰りなんで楽ですが⋯⋯」
明日は羽田から沖縄の往復便だけで終了だ。宿泊を伴わない楽なフライトだし、沖縄便はサービスタイムもゆったりしていてゆとりがある。
「CAなんてお茶汲みでしょ。何を偉そうに⋯⋯」
「働いていないルリさんには分からないかもしれませんが、楽な仕事など存在しません。まず、CAの仕事をするならこのマニュアルを暗記してください」
私は灰色の表紙の辞書のような厚さのファイルを見せた。
実際に飛んでいるCAは皆このマニュアルを暗記している。暗記をしているかはプリブリーフィングでチェックも入る。外資系の航空会社では人の記憶を信用していない為、暗記ではなくマニュアルを近くに置いて勤務するらしい。しかし、国内系航空会社は暗記が基本だ。
「暗記すれば、仕事をして良いの?」
私はルリが明日の早朝のフライトまでに辞書レベルの分量のマニュアルを暗記しようとしている事に驚いた。
(この子、やっぱりパパ活女子じゃなくて、勉強慣れしたもう一人の私だ)
「いえ、私たちCAは空の安全を守る保安要員として厳しい訓練をしています。マニュアルの暗記だけではなく、胴体着陸やハイジャックなど緊急時に備えた訓練をしていないと⋯⋯」
私が言い終わらない内にルリは強引に天井に引き寄せてきて、私はルリの世界に取り込まれた。