私は傑の悪びれない態度に彼へのひとつまみの未練も消滅した。
彼は来年くらいには海外駐在の予定があるので、私も仕事を辞めるつもりだった。
(早まって辞めなくてよかった⋯⋯)
「やめるのは傑との関係だよ。さようなら」
長々とどうでも良い言い訳をその後も聞かされたせいか、気がつけば実家の前まで到着していた。
私がタクシーを降りると傑が後から着いてくる。
そして、家の門の前には父が腕組みをして立っていた。
「冴島君、送ってくれてありがとう。お茶でも出したいところだが、今日はもう遅いからここまでで構わないよ」
父が微笑みを浮かべながら言った言葉に、傑は頭を下げて去った。
外面は良い父だが、決して傑を歓迎していない。
傑が乗り込んだタクシーが見えなくなると、父が私に低い声で言った。
「瑠璃、家に早く入りなさい」
これから起こることを予見して、体が硬直する。
玄関を入って靴を脱いで立ちあがろうとした途端、父の平手打ちが私の頭に炸裂した。
勢いで髪を纏めていた髪留めが吹っ飛び長い黒髪が宙を舞う。
その様子をスローモーションで見ながら、私は隠れて私と父を覗き見る母に救いを求める視線を送り続けた。
結局、朝方4時まで父に正座させられ罵声を浴びせられどつかれまくった。
父は私のGPSの位置情報から、私が傑とラブホテルにいたと思っているらしい。私は仕事からの帰り道に傑と遭遇しただけだと伝えるが、父は私の言い分を全く信じなかった。
「お父さん、そろそろ学会に向かわないと! 飛行機の時間がありますから」
今日から1週間両親は留守にする。父はスイスで行われる学会に出席予定で母も帯同する予定だ。
「全く、親に嘘をついて結婚前にいかがわしい事をしてたなんて汚らしい! 1週間、必ず、朝昼晩、どこで誰といて何をしているか報告して来い」
父はそう言い捨てると、私にもう一発平手打ちを喰らわした。
私はやっと解放されて部屋に戻り枕に顔を埋めてひたすら泣いた。
「もう、嫌だ。こんな家⋯⋯こんな人生⋯⋯」
スマホを取りだすと傑から50回以上の着信があった。
私は彼の番号を着信拒否しSNSもブロックした。
式場が1ヶ月前からキャンセル料がかかるのを思い出し、慌ててキャンセルのメールを送る。
泣き続けている内に、少し眠ってしまったようだ。
一階には人の気配がないから、多分両親はもう空港に向かったのだろう。
姿見に近づいて、自分の姿を映す。
「酷い顔⋯⋯」
メイクは崩れて、髪もボサボサ、頬も赤く腫れている。
今日から2日間は休みだから、その間に頬の赤みは引くだろう。
突然、姿見がピカッと明るく光り、目の前には美しい女性が映し出された。ピンクベージュのウェーブ髪にヘーゼル色の瞳。高級そうな淡いピンクのワンピースを着ている。自信溢れる色っぽい彼女の視線に釘付けになった。
『何を自分に見惚れてるの? 鏡よ。鏡! 世界一美しいのはこの私、モリモトルリよって言ってみなさい。鏡って自信を付ける為に見るものよ』
「はいっ?」
目の前の自分を見ると髪は黒髪のストレートだし、鏡に映る自分は別人に見える。
『はぁっ、なんか冴えないわね。ちょっと、今、そっち行くわ』
目の前の美女はそう言うと、姿見の中から飛び出してきた。
「初めまして、もう1人の私。良かったら、私と人生交換しない?」
美女が妖しく微笑みながら、私に狙いを定めた女豹のように近付いてくる。
私はあまりの非現実的な出来事に卒倒しそうになった。
(こ、こういう人間が飛び出してくるホラー映画あるよね⋯⋯)
「まだ、見惚れてるの? まあ、私が黒髪ストレートにして、カラコン外して、美容を1ヶ月くらいサボったら貴方になるわよ。瑠璃! 貴方は女として手を抜きすぎよ。だから、浮気されるんだって」
目の前の女性が私を楽しそうに揶揄ってきて頭がカッとなる。
「私が、手を抜こうと関係なく浮気しない男性はしないと思いますが⋯⋯」
「本当に夢見る箱入り娘のままなのね。私は大学1年の時に夢見るお姫様は卒業したわ⋯⋯」
なぜ彼女が自分の事を知っているのか疑問に思ったが、近くに来てよく見ると確かに彼女と私は似ている。
「何で私の事を知ってるんですか?」
「並行世界って分かる? 森本瑠璃はこの世界以外にも存在するの。私は別の世界のモリモトルリ。人生に行き詰まって、他のルリと人生を交換しようと思って色々調べてたの」
あまりにもファンタジーな話をされて、現実的な私は全く頭がついていかない。
「ルリさん、貴方は何をしてる方なんですか? 私の事を調べたのなら分かると思いますが、私はTKL航空でCAをしています」
「私は色々あって大学中退して無職よ」
「交換はお断りします」
私の言葉にルナさんは余裕の表情で笑い、耳元で囁いてきた。
「ちなみに私、親からは勘当されているから」
「勘当!?」
「ほらっ、食い付いてきた。そんなに嫌なら逃げれば良いのに。今日から1週間もいないんだから、この間にマンションでも契約して逃げなさいよ」
ルリさんは痛いところをついてくる。
私も何度も考えたことだ。
しかし、私の足は29年間鎖で繋がれて飼い慣らされた奴隷のように重い。
「私は港区白金のタワーマンションの38階に住んでるの。部屋は私の恋人からのプレゼントね」
「はぁ? そんなプレゼントくれる彼氏って」
「『ジュエリー真咲』の社長、
目の前のモリモトルリの話に思わず息を呑んでしまった。
『ジュエリー真咲』といえば、世界的に展開する大手宝飾品店だ。真咲隼人は世界長者番付ランキングにも載る成功者。彼はファッション事業や旅行業界、介護事業まで手広くやっている真咲グループの御曹司だ。真咲グループが航空会社を設立した時の会見でも、芸能人顔負けのルックスをした真咲隼人が登場した。
(それなら、無職でも⋯⋯問題ない?)
「1日だけお試しで私になってみない? 気に入ったら継続ということで⋯⋯」
まるで誘うようにルリさんが私の耳元で囁く。
昨晩、10年付き合った恋人の本性に絶望したのに、夢のような話が舞い込んでいる気がする。