着陸が23時を過ぎると、タクシーで家まで送って貰える。私の家の門限は20時。仕事帰りだから許される真夜中の風景を窓越しにただ見つめていた。 私は大学卒業後、大手航空会社TKLのCAになった。空の安全を守り、ホスピタリティーを追求したいという志望理由は私の真実を隠す隠れ蓑となっている。過度な親からの過干渉を逃れる為にCAになった。
私の父親は有名な学者で、私がCAになるのも反対した。
父は私にも学者の道を志して欲しいと思っていたのだ。
父には私の思惑が露見していたのであろう。父は私にGPSを持たせシフトを毎月提出させた。
その上、国内線限定ならという条件で入社を許可した。
国際線資格を取らない私は職制からも首を傾げられた。
私の家の異常な状況を知らない人間には説明しても分からない。私が、ただ1人この恥ずべき秘密を明かしたのは来月結婚する婚約者である
「ラブホ街を抜けるんですか?」
「近道なんですよ。でも、珍しいですね。CAさんは大体空港線沿いに暮らしてるのに⋯⋯。片道1時間くらいかかるでしょ。朝早い通勤の時とか大変ではないですか?」
「親が心配性で一人暮らしを許してくれないんです⋯⋯」
タクシーの運転手は気を利かせて、私が早く家に到着できるようにラブホ街を抜ける近道を使ったらしい。
(いつも通りの道を通ってくれなきゃ、困るのに⋯⋯私の位置情報は常にチェックされているんだって⋯⋯)
ハラハラしながら、ネオンが眩しい夜の街を抜ける。
寄り添う男女は年齢が親子ほど離れたような人たちもいる。
私には永遠に縁のない場所だ。ラブホテルのようなソレ目的のようなホテルに泊まる女の気が知れない。
「ちょっと、止まって! ここで、降りるわ」
「困ります。会社と家まで送り届ける契約なので」
「じゃあ、家まで送り届けて貰ったことにするから!」
先程まで、フライト疲れでぐったりしていた体が覚醒する。
私の突然の剣幕にタクシーの運転手は驚いてブレーキをかけた。
車のドアのロックを外して慌てて外に出る。
生暖かい風が頬をくすぐる。
「傑! 何してるの?」
私の声掛けに驚いて振り向いたのは来月結婚予定の婚約者の冴島傑だった。 彼との付き合いは大学時代からで10年になる。大手総合商社に勤める彼は一見遊んでそうなルックスをしているが私には誠実だった。デートをしてもいつも20時までには家まで送ってくれた。
「ちょっと、待てよ。誤解だって!」
傑は私の手首を力強く掴んでくる。
「痛い! 離して!」
「ごめん、ちょっと、魔が差しただけなんだ。ほら、瑠璃の家、厳しくて会える時間も制限されてて流石に寂しくなっちゃってさ⋯⋯」
一瞬、自分が悪い気がしてくる。
私の家は特殊で、私の仕事も会社員の彼と会える時間を簡単に作れる仕事ではない。
「ひどーい! 傑さんってば、本命は私だって言ったじゃん。彼女さんは自立してなくて、実家にべったりだから結婚しても里帰り中とかに沢山会えるって!」
後ろから聞こえてきた女の甲高い声に私は急速に頭が冷えた。
傑には私の家の特殊な状況を恥を忍んで事細かに説明した。
それを親身になって聞いてくれて共感してくれたから私は彼との結婚を決めた。
「じゃあ、本命の彼女と仲良くね」
私は運良くカップルが降りてきたタクシーに乗り込む。その後ろから傑が無理矢理タクシーに乗り込んできた。
「三鷹までお願いします!」
「なんで着いてくるのよ!」
「流石に10年も付き合って来月結婚なのに、これで終わりはないだろ! 話を聞けよ!」
腕を強く握られ、揺さぶられる。
彼の隣には20代前半くらいの髪を巻いた女性がしなだれかかっている。
「瑠璃、どうしてここに?」
目を丸くして私の名前を呼ぶ彼は私の婚約者のそっくりさんではないみたいだ。
「あっ、もしかして噂の冷凍マグロの婚約者さんですか?」
彼の隣にいた女性が私を嘲笑し始めた。
(どうして『冷凍マグロ』の意味がわかっちゃうんだろ⋯⋯)
厳しい家に育った私に自由はない。
でも、過去に二度程真っ昼間に彼の部屋で体の関係を持った。
私の中でお付き合いをしているからにはそういう事に応じなければいけない義務感と親に対する罪悪感が戦い体は硬直した。
「ちょっと、桃華は黙ってて! 瑠璃、今、説明するから」
「説明はいらないわ。私たちの関係もこれで終わりね」
私は蹄を返して歩き出して、タクシーを捕まえられるような大きな通りに出ようと足を進めた。
4本もフライトして、体はフラフラだ。
彼にも私のシフト表は渡しているから、今の状況は分かっているはずだ。
それなのに、彼は今から自分の浮気の弁明をするらしい。
「はぁっ⋯⋯」
外を見ると、やっとラブホ街を抜けていた。
潔癖だと思われるかも知れないが、男女の欲望が渦巻いているような空間は空気が澱んでいるようで息苦しかった。
「瑠璃、お願いだから聞いて⋯⋯。あの子とはもう終わるから。うちに派遣で来てる子なんだけど、俺に憧れてるらしくて、一度だけでも抱いて欲しいって言われてさ。彼女は仕事できないから契約更新にはならないし、もう会うこともない」
「そうなんだ⋯⋯でっ! その言い訳聞く必要ないから、ここで降りて。傑は求められれば、そういうことを誰とでもするって事? 私の悪口も言ってたんだ⋯⋯」
私にとっては傑とさっきの女の子が何度関係していてもどうでも良かった。浮気を一度でもする男は信用できない。
「悪口というか、言いづらいけど本当のことじゃん。俺、結構モテるんだけど、何の努力もしないマグロのままで繋ぎ止められると思ってるの? 瑠璃も俺が好きなら少しは努力してよ⋯⋯」
消え入りそうな声で彼が伝えてきた言葉はしっかりと私の耳まで届く。
一瞬にして脳が怒りで沸騰するのが分かった。
「自分の浮気を正当化? 別に、モテるんなら他に行って貰って構わないんですけど?」
「本当に良いの? 現実問題、瑠璃もアラサーじゃん。しかも、実家面倒だし、普通の男は逃げるって⋯⋯俺を逃したら、この先結婚なんてできないと思うけど?」
私は自分の男を見る目のなさに絶望した。
10年間、彼は誠実で私の一番の理解者だと思っていた。
私は彼を窮屈な刑務所のような実家から連れ出してくれる王子様だと信じていた。
「別に良い⋯⋯結婚なんてしなくても⋯⋯」
偽りなき自分の本音が漏れた。
私がこだわってるのは結婚ではなく、実家を出て自由になることだ。
「こっちは、困るよ。もう、周りに瑠璃と結婚するって言っちゃったし⋯⋯」
「何? 自立できない箱入り娘と結婚するから、これからも不倫相手募集中とでも触れ回ったの?」
「何で、そんな棘がある言い方する訳? 仕事で疲れてるからって八つ当たりするなよ。感情のコントロールもできないくらいなら、仕事辞めれば?」