それは何の変哲もないただの図鑑。持ち運ぶのには少々大きくて重さもあって邪魔ではあるのだが色彩の豊かさとその造形の精確性も気に入っていたので鍛錬の一部と思って使用している。そんな私の愛用品を彼女は『綺麗』とつぶやいてからずっと食い入るように見つめている。
今のところ他のことは目につかないらしい。
今日倒した一階に生息している魔物を調べ、『だから手応えが・・・この魔法は利きが悪かった。』など自分なりに反省している姿は自分の駆け出しのころを思い出す。
命を落とさないように慎重に行動していたソロの時代、それからだいぶ慣れたころ無茶をしてクロウに助けられてからは二人で作戦会議するのにも大いに役立った。
今使っているのはだいぶボロボロで端が折れ曲がっているし、ヨレヨレになっている。こんな古いものでも喜んでもらえるなら最新版をプレゼントしたら喜んでもらえるだろうか?
(そういえば今年の春に出た最新版は北の最新ダンジョンの魔物も追加された上に小型軽量化されてたから買い替え時かもしれない。お揃いにするのもいいかも。)
本と言えば一般人が買うにはちょっとした高級品で、まして図鑑のように厚みがあって色が多いものはどうしても値が張ってしまうが、フロンティアのダンジョンデビュー記念にはいいかもしれない。ずっと使えるものだし。
(何より、それを開いて使うたびに私のことを思い出してくれたらいいのに。)
などと不届きな独占欲がちらつくのは仕方ない。まして、この世人の中じゃ私が一番彼女との心理的距離が遠いだろう自覚もあるし。
(下心ありありと思われたってそれはそれでいいし。)
そんな不謹慎なことを考えていたら、一階の魔物は一通り見終えたのか、今度は二階に生息する魔物のリストと図鑑の索引からどんどん調べて注意事項を自分の手帳と思しき手のひらサイズのものに書き込んでいる。
(まじめな性格なんだろうなぁ。さっきも全員を魔法で浄化してしまうあたり几帳面もあるかもしれないけど。)
飽くことない探求に輝く瞳はペラペラと紙をめくる。ふと、何か疑問に思った彼女から質問をされてその手元を覗こうとそっと近づく。
ほかのメンバーが寝ているのをちらちらと確認し、ちょっとしたいたずら心に背後から近寄ってみる。驚かそうと思ったのに、彼女が発したくしゃみに私のほうが慌てる。
それも仕方ないと思う。人族は獣人と違って体が弱いし、病気になると死んでしまうし、ケガだってちょっと打ちどころが悪いと死んでしまう。
(フロンティアに何かあったら・・・。)
手っ取り早く温めたいと思うがこれ以上の防寒着は持ち合わせていない。せめて毛布でもあれば……。
(そういえば、ありましたね。羽。)
普段は飛ぶ時以外邪魔になるのでしまっているが、私の背中には翼がある。肩甲骨のあたりにぐっと力を込めれば大きな翼が広がる。
包み込むように彼女の体を自身と共に包み込んで、空気を含んだ柔らかな羽が細身を温める。翼に驚いている隙にその身を寄せて、図鑑を見るふりしてしっかり膝に抱き込んだ。
後ろから見てもフロンティアの耳のてっぺんまで赤く染まっている。
(私のことを意識してくれた……?)
思わぬ反応に喜びで羽が震える。
(もっと、意識してくれないかな……。)
自分のすることにちょっと反応を示してもらえたらそれでいいと思っていた。それなのにこの予想以上の反応。我ながら欲張りだと自嘲の笑みがこぼれる。
わざと耳のもとで囁けば彼女の華奢な方が震える。
(可愛い。このままずっと腕の中で閉じ込められればいいのに。)
そんな欲を誤魔化すように図鑑の魔物について説明しているとやがて反応が薄くなり、穏やかな寝息が耳に届く。
「おやおや。こんな猛禽類の翼で寝てしまうなんて食べられても文句言えないってわかってるんですかねぇ?」
眉尾を下げて目を細める。このまま寝かせるのもやぶさかではないがきっと明日がつらくなるだろう。そっとその身を反転させて膝の上に彼女の膝裏を乗せ、その足と反対の腕で横抱きにしてその背を支える。
穏やかな寝顔が美しくて、可愛くて、愛しい。
規則的に上下する胸が女性らしい曲線を描き、理性を試されているとしか思えない。幸い翼に包まれる私たちは他のものが起きても見ることはかなわないだろう。
(夕べはクーも好きにしてたし、ちょっとくらいいいか。)
半ば開き直るように彼女の額にキスを落とす。柔らかな髪に頬を寄せれば甘い香りがする。
(本当に食べてしまえたらいいのに。)
そうしたら彼女は私の血肉となって一緒に生きていける。それこそ一心同体だ。……そこまで考えて我に返る。いやいや。危ない。自分の思考にドン引きだ。
大体食べてしまったらこの可愛い姿も清銀の鈴のような声も白魚のように儚い肌も触れることも叶わくなっては本末転倒だ。
(これだから鳥族は重いと言われるんだ……。)
それでも、今この時、この瞬間だけは私のフロンティアでいておくれ。そんなささやかな願いを込めて真っ白な首筋にキスを落とし、吸い上げる。
「――っ。」
小さく漏れた声に一度力を緩めたが、めまいのするような甘い香りと少し乱れた息遣いに離れがたく、もう一度だけ。とリップ音を立てて吸い付いた。
惜しむように唇を離したが、雪のような肌に丸い朱色を見とめて自然と頬が緩む。嬉しくて、愛おしくてそのこめかみに擦り付けるように頬を寄せて夜は更けていった。