いつだかの足音よりたちが悪い。どんな未練だ、と自嘲しながら振り返る。
ちょうどソンリェンが、ひょいと窓枠を跨ぎきったところだった。「着地しやすくなってる」とも聞こえたような……。
たっぷり三秒見つめ合う。蝶の前翅を彷彿とさせる眼。新緑の匂い。黒無地の長袖Tシャツにデニム、右手にスニーカー。
この骨は幻ではない、本物のソンリェンだ。
「って、ここ二階なんだけど!?」
「大家さんからマネージャーに連絡されないよう、アパートの階段の反対側から登って来ました」
さすがに声が裏返った。
一方のソンリェンは澄まし顏で釈明する。
かと思えば、お得意の上目遣いを繰り出した。
「今日はお酒はないんです。でも、御手土産を持ってこなくてもいいとは、ただ会いに来ていいってことですよね?」
「気にするところそこじゃないでしょう……。怪我でもしたら大変だよ。まったく、大事な日に何してるのさ」
いつだか節約するよう伝えたのを、都合よく解釈したらしい。
シウは状況に追いつくや、責めるような口調になった。公開練習生一日目に個人行動でペナルティなんてなったら、洒落にならない。
それに……ほんの数時間前、シウにとってソンリェンは「応援するアイドルの一人」とラベルを貼り直したはずが、三十センチの距離に立たれて、なぜか動揺していた。
ソンリェンが悪びれず手を伸ばしてくる。
つい身構えたが、流しっぱなしの水道を止めただけだった。
「何って、絶対また会いに来ますと御約束しましたから」
(約束?)
また沈黙が流れる。さっきからシウばかり狼狽えている理由は、たぶんこの認識の違いだ。
シウはもう会わないと思っていた。
ソンリェンはまた会うと思っていた。
成人の約束は覚えがあったが、ふたつ目の約束とは――先月の記憶を点検する。
「……あっ。キムマネージャーと帰ったとき」
龍の絵を描いた雨の日、去り際にソンリェンが何か言ったのを思い出した。
ソンリェンが大きく頷く、けれど。
『小雨、我一定会再来的』とは?
「中国語だった? それじゃわからないよ」
「韓国語で言ったらマネージャーにも通じちゃうじゃないですか。それにヒョンには以前、中国語の『来る』を御紹介しました。忘れたんですか?」
聞けば、ソンリェンの韓国語がまだ赤ちゃんだった頃、韓国語と中国語でそれぞれ「来る・行く」をどう言うか話したらしい。
ソンリェンと違って外国語を覚えようという意識がなかったために、習得できていなかった。
向上心の差をちょっぴり恥じ入る。
絶対また会いに行きます、と言っていたのか。
そうと知っていればここまでぐるぐるしなかったのに……なんて。
「とにかく。マネージャーに横入りされて途中になったお話の続きをしたいんです」
シウの気も知らず、ソンリェンはベッドに腰掛けた。今日は酒がないからか床ではない。隣をぽんぽんと示す。
ほぼ一か月ぶりの再会は、すっかり彼のペースだ。
「僕のベッドなんだけど」
「はい」
正確には大家さんのベッド。
「長くなる?」
「……どうでしょうか。『応援に来てくれた家族と話す』って言って出てきたので、少なくともマネージャーに中断はされません。あ、家族とは本当に話しましたよ」
ソンリェンはスマホを振ってみせた(今は電源を切ってある)ものの、めずらしく歯切れ悪い。
キムマネージャーの言う清算ではないが、いよいよデビューが近づいて、彼も気持ちを整理したいのかもしれない。
他の誰にも知られず恋をしまうと決めたのなら、一緒に埋めてあげよう。シウは観念して応じた。
「ヒョンもバスキングに来てくれてましたね」
しかしいきなり予想外のところから切り込まれ、ベッドから滑り落ちそうになる。
いけないことはしていない。体勢を立て直す。
「遠目なのによくわかったねえ」
「おれ視力2.0です」
それにしたって、初めての有観客ステージで、シウのいた辺りまで目を配っていたとはおそれ入る。
遠くても近くても、ソンリェンの視線は突き刺さるかのようだ。
「どうでしたか。おれのこと嫌いになりましたか?」
「それは……、どういう……」
今夜のソンリェンは、のっけから火力が強い。彼の思考の経過を見守るつもりだったシウは、たちまち口ごもった。
そんな頼りないシウに、ソンリェンは一語一語、再確認するみたいに説明する。
「おれはシウヒョンと踊りたいし、シウヒョンとアイドルになりたいんです。なのにおれが入ったから、ヒョンはグループから出されました」
「ああ、それならリェニのせいじゃないよ」
慕ってもらえるのは嬉しい。嬉しいぶんだけ、ほろ苦い。
ソンリェンはシウに追いつきたくて努力した。その結果はるか追い越した。
彼と同じ速度で走る才能がシウにもあれば起こらなかったジレンマだ。
……これは、シウがしまったばかりの箱を掘り起こさないといけない? 少し気が重い。
でも、箱の蓋をやっと閉められた今のシウならわかる。ソンリェンとシウの間に、才能と恋が混在するせいで、答えを出すのが難しいのだと。
ソンリェンは縋るような目をしている。苦しんでほしいとは思わない。
箱の蓋を一センチだけ開けることにして、優しく語り掛ける。
「嫌いになるどころか、よく磨かれてきらめいて、世界にたまにある本当に尊いものだと思ったよ。僕も踊りたくなった」
素直に崇拝を表したのに、ソンリェンは真顔のままだ。少ない余白に「読解中」と浮かび上がる。
恰好いいとか可愛いに比べて、ちょっと不親切だったか。
「リェニは華があるってこと」
そう言い直すと、ソンリェンは全身の空気ごと晴れ渡った。
「その華は、シウヒョンがくださいました」
「あのさ。僕はそんな偉大な練習生じゃなかったんだって。リェニが花開いたのは、レッスンしてくれたトレーナーさんと、きみ自身の努力のおかげ」
みなまで言わせるな、と八の字眉で笑う。まだ傷痕は乾ききっていない。
「そのふたつだけじゃありません」
シウが対照的に曇ったのを感じ取ったのか、ソンリェンはゆっくり首を振った。
「ヒョンは、人間が好きじゃない自分はアイドルに向いていない、って言いました」
「……うん?」
「なら、もしこの気持ちを諦めていたら、おれはアイドルとして完成できなかったはずです。シウヒョンが好きという気持ちを、『華』というんじゃないですか」