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第10話 挫折を知らず命を削る


 ぐるぐる考えるうち、ソンリェンたちのバスキング路上ライブ当日を迎えた。


 会場は現地の混乱を防ぐためSNSには明記されていないものの、ヒントを兼ねた設営写真やYK事務所推しファン間の情報交換により、漢江公園の水上ステージで確定らしい。

 野外なので、チケットは要らず誰でも観に行ける。


 例によってアパートの床で丸まっていたシウは、スマホを投げ出した。

 「あー……」と、か細い声も吐く。


 ソンリェンと会わないまま何日経っただろう。

 公開練習生になったら、彼はますます気軽に出歩けない。事務所の監視もあるし、ファンに気づかれて詮索される。

 そして遠からずデビューすれば、完全に手の届かない存在になる。


(最後に、ひと目だけ……)


 そう奮い立っては思い直し、スマホを眺めては起き上がり。何度繰り返しただろう。

 観に行くなら、そろそろ出発しないと間に合わない。


 ――ヒョン、いつまで御休憩ですか?

 部屋に居座る幻の後輩の骨に焚きつけられ、シウは条件反射で立ち上がった。

 何らかの答えをもって行きたかったけれど、答えが出ないまま行くしかない。


 皴の少ないTシャツに着替え、黒いキャップを目深にかぶる。マスクも装着して、玄関を一歩踏み出したら――陽光に目が眩んだ。


 誰かさんが晴れ男のせいだ。空は雲ひとつない。よたよた階段を降りていく。

 一階で、窓を開けて恋愛ドラマを観ていた大家さんと目が合った。二度見され、かあっと耳が赤くなる。

 実は入居以来、初めての外出なのだ。


(同じ場所でぐるぐるしてたのは、もっと前からなんだよなあ)


 事務所を放り出され、人間と関わることが完全に無理になってしまっていた。

 普通の人には何でもないことなのに。

 またしても自分の情けなさを突きつけられながら、狭い道のさらに端を歩く。

 学生向けアパートが立ち並ぶ道から、大通りへ出た。


 祝日の人混みに立ち竦む。色が多い。背中をつうっと汗が伝う。

 アパートに引きこもって春を丸ごと飛ばしたから、屋外の暖かさにただでさえ身体が慣れない。


 でも、引き返さない。

 手を挙げて市バスに乗り込んだ。




 広大な漢江公園では、バスキングが盛んに行われる。

 中でも水上に張り出したフロートステージには、アイドルも多く立つ。正面の広場は階段状になっていて見物しやすい。

 今日は椅子も並べられ、数百人の女の子たちが開演を楽しみに待っていた。


 まだ陽暮れには早い十七時。シウは広場に近づけず、横の大噴水の周りを行ったり来たりする。

 勢いで出てきたので、YKミュージックの社員や他の練習生に鉢合わせたときの対応を用意していなかったのだ。

 キムマネージャーに見つかって摘まみ出されてしまうかもしれない。


 すれ違う家族連れが、背が高く平均よりずっと痩せていてほとんどの校則で許されない金髪なシウを、ちらりと見る。

 咄嗟に噴水を眺めるふりで身体の向きを変えた。


(元練習生が何してるんだ……って、一般の人は知るはずもないのに)


 自意識過剰。居たたまれない。

 そんなシウを助けるかのように、十数メートル向こうで甲高い歓声が上がった。


 ステージに主役が登場したのだ。

 水辺に映える青色の、それぞれディテールの異なる新品の衣装に身を包んだ五人。

 ライブハウスのように暗幕の前で強いライトに照らされずとも、輝いている。


 彼ら目的の観客以外も「なになに」と注目する中、知らない曲のイントロが流れた。

 自己紹介代わりにか、いきなりパフォーマンスし始める。「頑張れ!」としきりに声援が飛ぶ。まだ何も知らないのに、ファンの子たちは頼もしい。


 この距離にこの角度だと、五人の顔まではよく見えない。シウと同じ宿舎に住んでいたメンバーだとは思う。


(でも、わかるよ)


 シウは甘いものと辛いものを一緒に口に詰め込まれたみたいな気分になった。


 唯一ソンリェンだけ、ダンスフォーメーションで端や後ろに行こうが、慣れないヘッドセットマイクを通そうが、強烈に存在感を放っている。


 今日も緊張は感じられない。恵まれた骨を活かし、新グループらしい清涼感溢れる曲を表現する。

 彼のダンススタイルは明るくきっぱりした態度と裏腹にそこはかとなく静や陰を帯びているゆえ、「できるコンセプトが限られるのでは」なんて憂慮もあった。それを一掃するとともに、グループにアクセントを与えてすらいる。


 最後に彼のダンスを見た月末評価のときより、さらに洗練されていた。

 一年前は初心者だったのが、今や彼の壮大な世界にたくさんの人を巻き込んでいる。立ち位置が端なのは、彼のつくる世界観が独特だからでなく、真ん中だと目立ち過ぎるからかもしれない。


 ソンリェンのきらめきの欠片が、川風に乗ってシウの元まで届いた。


(――きれいだ)


 このきらめきは、もともと美しいものを、折れる寸前まで研磨したときにのみ生まれる。

 たとえ一部折れても一時折れても踊り続ければ、むしろ乱反射して忘れられない色になる。


 シウの数少ない好きなもの。

 気づけばソンリェンばかり目で追ってしまう。他の四人だって実力者なのに。

 振り付けの合間に、一人がハイタッチの手を差し出す。ソンリェンが不敵に応じる。たぶんアドリブだ。


(僕も、)


 いつの間にか、シウの足が小さく動いていた。



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