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第9話 恋を知らず問いを踊る

 シウの部屋は、ものの数日で散らかった。

 かつて宿舎に入ったときも出たときも私物は少なかったはずが、服や日用品、ソンリェンに食べさせる用のカップ麺なんかが思ったより増えている。


 ただし、ほとんど使用済みやあってもなくてもいいものたちだ。それらを壁際へ押し退け、床にスペースをつくる。夜空に穴を開ける月みたいに寝転がり、丸くなった。


 部屋に独りでいると、現実が迫ってくる。

 ――自分を追い出した後輩の未来を潰そうってのかい。

 キムマネージャーも、シウはグループのコンセプトに合わないなどではなく、ソンリェンに取って代わられたという認識だった。


(それも、韓国語を教えたりしてわざわざ育てて)


 アイドルが向いていないからやめた、のではない。ソンリェンという上位互換が現れたからやめさせられたのだ。

 人間が好きじゃないどうこうは(実際別に好きじゃないが)、現実逃避の、後づけの理由だ。


(でも本当に、あの子を引きずりおろしてやれなんて思ってなかった)


 練習生は、月末評価や体重超過のほか、生活態度も退社事由になる。

 社員の目を盗んで夜遊びを覚えたり、禁じられている恋愛にはまったりして、練習室からいなくなった者たちをシウも見てきた。


 ソンリェンにはそんなふうに堕ちてほしくない。と言うか彼は墜とせない。シウにも他の誰にも。ソンリェンの未来は、とっくに神様が決めている。

 ――アイドルになるんだから。

 ――それって、

 うやむやになってしまったけれど、あのときソンリェンは何か言おうとしていた。

 シウも、あれを自分の答えのすべてとするのはしっくりこない。


(問十九、自分にとってソンリェンはどんな存在か五文字以内で答えよ)

(問三十二、アイドルに生まれついたのにこの部屋に通ってきたソンリェンの真意を読み解け)

(問百二十、きみの本当の心情とやりたいことを述べよ。字数無制限……)


 こんなふうに悩んだ経験はない。こうなりたくないから人と一定の距離を取ってきたのもある。

 でも今、ソンリェンの気持ちにも、自分の気持ちにも、向き合わないといけない気がする。


(抱き締めたりしたい「好き」だって言われて、キス……されて、びっくりしたけど嫌悪感はなかった)


 指先で唇をなぞる。ソンリェンの唇の感触はもう残っていない。ほっとするような、惜しくもあるような。


(女も男も別に好きじゃなくて、嫌いでもなくて、じゃあ、リェニのことは?)


 練習生は恋愛禁止。その制限を差し引いたら、シウは何と返しただろう。


(……、簡単に解けるなら苦労しない)


 難題に倦んで寝返りを打つ。何か硬いものを踏み、痛みで小さく叫ぶ。

 肩甲骨の下から出てきたのは、ずっと洗い流していないパレットだ。

 美大受験に向けた習作も進んでいない。


 今あるのは、近くて遠い色、光と闇を混ぜた色、目を閉じるほど明瞭に見える色。

 敵わない、叶わない憧憬色もまだ残っている。


 ソンリェンに敵わないから、シウの夢は叶わない。

 後輩が会いに来てくれて嬉しかった。本当はいちばん会いたくなかった。

 心機一転、アイドルから美大生に進路を変えた。実は吹っ切れていなかった。

 久しぶりに笑った。同じだけ泣きそうになった。


 骨に絵を描く度、シウの中の穴に少しずつ溜まっていった。

 明るい充実と昏い虚無が。

 感嘆と自失が。

 昂揚と絶望が。

 ソンリェンが持つものと自分が持たないものが。


 でも嫉妬は――していない。あの骨はソンリェンが持ってこそのものだから。


(嫉妬じゃないなら、これは何かなあ)


 寝皴のついたTシャツの胸元を、きゅっと握る。再度パレットを見る。

 満ちそうな未知色が存在を主張してきた。


 もしや……初恋?

 確かに、ふたりきりの静けさも、ゆったりとした時間の流れも、居心地がよかった。


 足音が聞こえて、はっと上体を起こす。

 だが玄関は堅く閉まったままだ。


(気のせいか。それか隣の部屋の人)


 ソンリェンはあれきり、ふらっと現れることも、連絡を寄越すこともない。まさかマネージャーにスマホを没収されたか。


(って、カトクID交換してないんだってば)


 ソンリェンのIDは変わっていないがさすがに暗記しておらず、シウからもメッセージは送れない。


 それならと、充電器に挿しっぱなしだったスマホを取り、正座する。

 さらに深呼吸もしてから、YKミュージックのSNSにアクセスした。


[五月五日、バスキング路上ライブにて新ボーイズグループ候補生公開!]


 アカウント最上部に固定された告知が目に飛び込んでくる。

 選ばれし練習生五人が並んだシルエット写真も添えられていた。

 右端は間違いなくソンリェンの骨格だ。


(五月五日って、本当にもうすぐだ)


 スマホに表示されている日付は、シウの曜日感覚より進んでいた。

 ソンリェンはバスキングの準備で忙しいに違いない。たとえスマホが使えても追い込みに集中してほしい。


 ――問百二十一、もしも誰にも真似できないダンススタイルだったら、それだけ才能があったら、今自分も練習室で汗を流している未来があり得たか?

 ソンリェンによって増幅された内なる声が、意地悪な問いを追加する。

 ずっとこの声が聞こえていて、知らないふりをしていた。今までは。


 浮かされたようにベッドに乗り上げる。

 一段高いステージに見立て、指先まで神経を行き届かせた。


 この部屋に越してきて、初めて踊る。

 音楽はない。でも毎日練習した曲は身体が覚えている。

 歌詞を振り付けで表す。

 歌詞に収まらないコンセプトは視線や表情で補う。

 リズムを外さず、拍を刻む。

 ぴたりと静止したかと思えば、力強くエネルギーを放出する。


 ベッドが軋み、弾みで窓のカーテン代わりの布がはらりと落ちた。

 窓ガラスに、シウの隣で踊るソンリェンが映っている。ダンスレッスンのとき、つるむわけではないが、いつも隣や後ろにいた。


 振り付けのタイミングと角度を合わせようと、ひたむきな顏。休憩もろくに取らず長い手脚を操る。

 彼の最新の骨の形や長さや重さを熟知しているぶん、リアルな幻だ。

 その声まで。


『おれは、ユン・シウにアイドルになってほしいです』

(じゃあなんでキスしたんだよ)


 ソンリェンはシウへの告白など、とうに忘れていたりして。

 アイドルになるために、忘れてほしい。

 シウが答えを出すまでは、忘れないでほしい。


 たった一曲で息切れて、膝に手を突く。

 せっかく身につけたものも失われるのは早い。もう一度窓を見る余裕はない。

 答案は穴開きのままだ。


(……僕はどうしたらいい?)



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