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第8話 追い抜かれた先輩

「―――は、韓国語でどう言いますか」

「………だよ。○○って、漢字だとこう書くの?」

「謝謝。はい、そうです」





 濡れた靴が玄関を踏み荒らす。


「どうやって鍵を開けたんですか」


 狭いながらに完結していた空間を抉じあけられ、衝撃で声も出ないシウと裏腹に、ソンリェンが冷静に指摘する。


「マスターキーを管理するのが大家の仕事だ」


 二人目の侵略者ーーきっちり七三分けの、シウたちより少し年上の男が、皮肉とともに鼻息を吹いた。

 彼には見覚えがある。YKミュージックで練習生を管理する部署に在籍する、キムマネージャーだ。


 マネージャーの背後では、大家のおばさんがおろおろ眉じりを下げている。

 きっと大声で「マスターキーを出せ」と急き立てられたに違いない。どうか気に病まないでほしい。


「では、どうしてこのアパートにいるってわかったんですか」


 ソンリェンがさらに問う。後を尾けてきたにしては、乗り込んでくるまで時差があった。


「GPSだよ」


 マネージャーが事もなげにスマホを掲げてみせる。ソンリェンは瞬く間に険しい顔になった。


「定期的にスマホの中身を見せることには同意しました。でもGPSによる追跡は聞いてません」


 練習生にとって、事務所社員は絶対だ。ソンリェンの態度に冷や冷やする。だが、取り成そうにも今のシウは部外者過ぎて、うかつに口を挟めない。

 外国人で事務所のスマホチェックの対象だから、シウにカトクのIDを訊いてこなかったんだ、なんて場違いな答え合わせが精一杯だ。

 ソンリェンはシウに会いに来ていることを、誰にも言わずにいたのだ。


「はあ。むしろ今まで見逃してやってたんだぞ」


 キムマネージャーはソンリェンの抗議も意に介さなかった。

 彼は彼で、宿舎でも部屋主抜きで部屋に出入りしていたし、練習生のスマホチェックもGPS追跡も仕事の一貫、という感覚なのだろう。

 むしろ深々と溜め息を吐く。


「おまえには、来月から公開練習生になると通告したはずだ。自分で遊び相手の清算ができないなら、私が手を貸さないとと来てみたら」


 キムマネージャーの目が、初めてシウに向いた。


「おまえがいるとはな、ユン・シウ」


 その目には軽蔑が浮かぶ。

 ソンリェンが半裸なせいか、あらぬ勘繰りをされている。ひくりと喉がつかえた。


「やましい御事はしていません」


 代わりに、ソンリェンがタンクトップを被りながら前ににじり出る。

 描きかけの龍は隠された。シウも絵筆をマネージャーの死角に移す。


 絵を描いていたことを、知られたくない。

 ごく個人的で、儚くも充実した、大切な時間だった気がするから。


 ふたりの機転により、キムマネージャーは絵筆には気づかなかった。

 だが、冷蔵庫の前に無造作に置かれた酒瓶に目をつけた。苦々しげに吐き出す。


「夜な夜な連れ回して、自分を追い出した後輩の未来を潰そうってのかい? むなしいことを考えるのはやめなさい」


 ――ああ。少し前からシウの内にあるブラックホールは、他人の言葉であっけなく切り裂かれ、吸い込んで消したはずの中身を暴発させる。


『シウヤ、公開練習生になってもらうよ。三年近くよく頑張ってきたな』


 YKミュージックでは、デビューが近い練習生はプロフィールを公開し、ダンス動画などをSNSに載せていち早く好きになってもらうという戦略を取る。

 シウもその予定だった。

 だが、直前になって「グループの構成が変わった」と取り消された。


 グループにはダンスやボーカル、リーダーや末っ子などのポジションがある。もし重なったら、バランスが偏らないようどちらかしか選ばれない。

 シウは選ばれなかった。その事実があるから、ソンリェンに褒められても響かない。

 ……よりによって、ソンリェンに褒められても。


『月末評価で初めて一位取った子が、最後にメンバーに入ったって。ほら、中国人の。歌詞の発音もダンスも成長したから』


「自分を追い出した後輩」。

 同じグループでデビュー予定のメンバーが絆を強めるべく共同生活する宿舎を彼が引き継いだのは、そういうことだ。

 シウが出たところにソンリェンが入ったのではなく、ソンリェンを入れるためにシウが出た。

 シウは最初からわかっていた。


「おれが、シウヒョンを、追い出した……?」


 だが、ソンリェンのほうはそうと知らなかったらしい。弾かれたように先輩を振り返る。


 シウは目を合わせられない。きっと今、酷い顔をしているから。

 ソンリェンでなければ繕いきれた。

 でも、ソンリェンでなければざわめかなかった。


「おれ、おれは、ヒョンと、」


 ソンリェンが動作不良を起こす隙に、キムマネージャーがつかつかと歩み寄ってきて、彼の腕を掴む。パーカーもひったくった。


「――小雨、我一定会再来的」


 ソンリェンが何か呟いたが、マネージャーの説教に掻き消されて聞き取れない。


 美しい骨の持ち主は、正当な管理者に連行されていった。

 なぜか広く感じる部屋には、生乾きの絵の具だけが残った。




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