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第7話 追い掛けた後輩

 シウは身体の力が抜けてしまい、へたんと座り込んだ。絵筆も取り落とす。

 ソンリェンのほうは名残惜しげに睫毛を戦慄かせてから、

「しまった、今日はお酒を飲んでませんでした」

 などとのたまう。


 ――キス、した。

 台風の目にいるみたいな静けさの中、視線が交差する。シウが先に身じろいだ。


「……リェニはさ、男が好きなの?」


 キスされて最初に言うのはそれじゃないだろう、でもこれ以上の沈黙は、と脳内でミニチュアサイズの自分同士が争う。強風に煽られて大混乱だ。


「おれは、好きになった人が女のときもあれば、男のときもあります」


 ソンリェンは身体ごとシウに向き直り、一音一音はっきり発した。


「なので男が好きと言うより、シウヒョンが好きです。まだ伝えないつもりでしたが」


(僕が、好き――?)

 驚くほど堂々としている。

 そう言えば彼は、進退がかかった毎月末の評価でも緊張するそぶりがなかった。

 さまざまな感情を抱え、それを統べることのできる才能。

 凛と前を向くソンリェンが眩しくて、シウは俯いた。


「きみはいつも人に囲まれてる。みんな恰好よくて可愛くて性格もいい子たちだよね。どうして僕なの」


 正直、信じられないという気持ちが大きい。

 先輩への好意と取り違えているのではないか。でもシウより魅力的な練習生ばかりだし……。

 シウの逡巡を知ってから知らずか、ソンリェンはとんと自分の膝の骨を打った。


「シウヒョンは、言葉の覚束ない外国人のおれにも分け隔てなく接してくれました。かと言って御恩着せがましくもしません」

「まあ、『Ⅰ』だからね」

「前にヒョンのダンスが好きだと話したでしょう? 誰とも違うし、ずっと見ていられるし、お手本にしてます。瞼の裏で再生できるくらい」


 いくらでも挙げられるとばかりに、「シウが好きな理由」を言い連ねる。


「それと、おれの両手に収まりそうな薄い腹を、思いきり抱き締めてみたいとも思ってました」

「い、いつの間にそんな目で見てたんだ」


 ソンリェンの眼が捕食者の色に変わった気がして、シウは両手で腹を覆った。

 明確な欲。これで先輩への好意の線は消えた。


 彼が諦めないというのは――「恋」を、だったらしい。

 とんだ勘違いをしていた。


「いつも、ずっとです。ただ表に出す気はありませんでした。事務所には恋愛禁止のおルールがありますし、一緒に踊れたら充分です。でも」


 いつも。ずっと。ソンリェンはそう何度目かに繰り返したのち、ぎゅっと空気を握り潰した。拳のごつごつした骨が浮き出る。


「ヒョンが突然いなくなりました。カトクも届きません。練習生の誰に聞いても新しい連絡先を知りません。他の事務所の出勤を見てもいませんし、どのダンススタジオにもいませんでした」


 冬の間、そんなに探していたとは。それほどの価値はないのに申し訳ない。


「二月の卒業式の日、思いきって高校に伺いました。そしたらヒョンの御両親がいらして、新村シンチョンに引っ越したよと教えてもらったんです」


(母さんよ、僕の個人情報……)

 こめかみを押さえる。だが当人不在の卒業式という親不孝をしでかした以上、強く出られない。


「それからレッスン後に新村の大家さんを回っては、『背が高くて雌雄眼で「Ⅰ」な雰囲気の十九歳男性、ユン・シウ』と今年御契約しなかったか聞き込みました」

「気が遠くなるなあ」


 つい他人事みたいな相槌を打った。

 実際、新村は学生街であり、学生向けアパートがひしめいている。

 だがソンリェンは大真面目に「いいえ?」と首を振る。


「聞き込み先で『御恩人と再会したい』って話してたら、少しして他の大家さんからこのアパートじゃないかって教えてもらえたんです」


 またしても個人情報が漏れているではないか。

 大家さんネットワークよ。

 もっとも、大家さん世代は人情に弱い。

 外国人に、それもこの骨の顔に上目遣いで頼られたら、親身に助けてやりたくもなるだろう。


「すぐ伺いました。偶然居合わせたチキン配達のおじさんに、御注文者は二〇一号室の『ユン・シウ』だって聞いて、思わず踊りました。面白い子だ、っておまけもらいました」

「踊ったの? アパートの前の狭い道で、お腹のポケットに酒瓶入れたまま?」

「はい」


 よほど嬉しかったのか、ソンリェンが思い出し笑いする。

 シウもつられてくしゃりと表情を崩した。

 ――ライトもない場所でただ一緒に踊って、笑っていられたらよかったのに。


「うぁ、ヒョン。その貴重な笑い方をしないでください。またキスしたくなります」


 ソンリェンが一転、眉間に力を入れる。衝動を抑え込んでいるようだ。

 改めて、そういう「好き」なのだと理解させられる。


(僕の中には、そういう強い気持ちがない。なかった)


 事務所にいた三年間、恋愛禁止の規則もあり、練習生仲間とも高校の同級生とも一定以上は親密にならないようにしていた。

 中学の卒業式で何人かに告白されたけれど、恋人が欲しいと思わないので誰とも付き合わなかった。


 ソンリェンには目を惹かれたが、純粋に後輩として見ていた。

 さっき不意打ちでキスされてもぶん殴らなかったのは……異性以外お断り! みたいなこだわりすらないから。

 何より、彼は。


「キスはだめだよ。アイドルになるんだから」


 だからソンリェンの告白には応えられません。

 中学のときの告白と変わらずあっさり終わる話、のはずが――

 それだけ? と、シウの内側から声が這い上がってきた。


 ソンリェンも何か引っ掛かったらしく、前のめりになる。


「それって、」


 口を開くと同時に、玄関が乱暴に開いた。


「ソンリェニ! 帰るぞ」


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