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第6話 雨に風が触れる

「うわ、傘差さずに来たの?」

「おれは天晴れ男なのでいけると思いました」

「いけてないよ。あと晴れ男ね」


 花冷えの雨の日、ソンリェンはパーカーのフードも前髪もしっとり濡らして現れた。宿舎を出た時点では霧雨だった、などと供述する。


「お酒は無事です」

「守るものが逆でしょうが。ほら早く着替えて」


 お決まりのように腹ポケットから出てきた瓶は受け流した。


 練習生が風邪を引いてはいけない。備えつけの洗濯乾燥機を開け、長袖Tシャツをむんずと引っ張り出す。昼過ぎに回しておいてよかった。


(身長的に貸せるよな)


 振り返ったシウは、ちょうどパーカーを脱いだソンリェンを見て絶句した。

 二の腕にも胸にも彫刻のような筋肉がついている。シウのささやかなそれとは大違いだ。といっても鍛え過ぎではない、美しい骨にきれいに沿う肉。

 ――見れば見るほど○○とは違う。


「ハンガー貸してください。……ヒョン?」


 妙な間が空いてしまった。シウは居た堪れず、「ええとハンガーどこだっけ」と独りごちながら部屋を行き来する。


 結局洗濯乾燥機の上にあったハンガーを手渡すまで、ソンリェンは床が濡れないよう玄関で待機していた。表情に変化はないが、不審に思っただろうか。思ったよな。


「やっぱり乾燥機入れようか。そのほうが早いかも」

「いいえ」


 ソンリェンが一歩踏み出してくる。狭い部屋の空気が張り詰める。


「今日は、おれの背中の骨に絵を描いてください。お洋服をゆっくり乾かす間に」

「へ」


 シウは目を丸くした。贅沢過ぎやしないか。

 骨の面積の広さにしり込みするうち、ソンリェンはてきぱき窓を開け、紙コップに雨を溜める。筆とパレットと並べて置き、その横で胡坐を掻く。

 そして白いタンクトップを脱ぎ、惜しみなく背中を晒した。


 何だかシウが自意識過剰みたいだ。よく考えたら、今までしていたこととそう変わらない。

 ――それに、この機会を逃すのはもったいない。


「寒くない?」

「はい。むしろ少しお熱いくらいです」


 シウはソンリェンの背後に膝を突いた。改めて彼の背面を検分する。

 奥行きのある後頭部、首の付け根のまるい骨。急所なのに警戒の気配もない。

 水平に伸びた鎖骨。このおかげで服を着ると肉が消えるのだろう。衣装が映える。

 どんな振り付けでも恰好よくこなせそうな肩甲骨。

 まさに逆三角形のウエストを貫く脊椎。

 デニムを腰穿き気味にしているので、小さな骨盤の一部も見て取れた。


(つくづくアイドル骨だなあ)


 感じ入りながら筆を握る。

 夜を刻む雨の音が、あえかに聞こえる。

 健やかに伸びるソンリェンの背骨を、龍の鱗で覆うことにした。


「韓国ではさ、龍は雨を呼ぶって言われてるんだ。辰年生まれは雨男だよ」


 やはり普段より浮足立っており、シウから雑談を振る。ソンリェンは骨が動いて作業を妨げないようにか、そろそろと発声した。


「中国でも龍はお水を司ります。それと、御幸運の象徴でもあります」

「幸運かあ」


 自分には縁のなかったもの、なんて思う。


「おへそのピアスはそれにあやかったんじゃないんですか?」


 シウはきょとんと首を捻った。鱗を一枚描き込んで、ようやく思い当たる。

 一か月前、ソンリェンが大切そうに手に包んで持ってきた、フェイクストーンつきのピアス。


「うんにゃ、僕の名前は漢字で『時雨』って書くから、雨粒デザインを選んだだけ」


 雨に浸した筆ではなく指で、ソンリェンの背中に文字を書く。

 ソンリェンはそこに遠隔ディスプレイがあるみたいに宙を見上げ、「はい」と頷いた。薄いリアクション。

 我ながらありきたりな理由で縮こまる。ストーンがフェイクなのも自分に似つかわしいと思ったのだ。


「おれは『颯懍』です。意味は風」


 それでも礼儀のつもりか、ソンリェンも振り返って名前の漢字表記を教えてくれた。筆を持つシウの手を裏返し、さっと指で書く。伸びやかなはねとはらい。


(へえ、ずいぶん画数が多いんだな。……て言うか)


 最初の夜以降、はじめて肌同士が触れた。

 あちこちの骨に絵を描いておいて何だけれど。いや、それもすごく背徳的なことだったんじゃないか?

 一度自覚したが最後、耳がどんどん熱くなる。


「よく合うねえ、リェニが入社初日に練習室に入ってきたとき、気持ちいい大陸の風を感じたのは勘違いじゃなかったんだ。って意味わかんないか、あは」


 照れくさいのをごまかそうと、関係あるようなないようなことを口走った。頬が引き攣る。もう、今夜は寝る前に脳内反省会必至だ。


 ソンリェンは目を逸らすことなく、まだシウの右手を支え持っている。

 彼の手は、身長はそう変わらないのにシウより大きく、骨感がある。

 ……なんて味わっている場合じゃない。


 いかに自然に手を引っ込めるか苦心するシウと裏腹に、ソンリェンが長い首を伸ばしてきた。

 鼻先がぶつかる直前に角度をつけて避け、さらに近づいて。

 唇が、重なる。

 それこそ風がそよぐかのように、表面を控えめに擦り合わせる。


「……、えっ?」


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