あの人の、魔力を張り巡らせた指先が、世界の輪郭を描き出す。
拍が世界の夜と朝を、視線が世界の色を決める。
明るいだけの入口はいくつもあるが、あの人の世界の扉は退廃的でぞっとする。
容易く寄せつけないからこそ足を踏み入れたくなる。たとえ帰ってこられなくとも、最奥まで沈みたくなる。
2
「これは何酒?」
「
またしても紙コップに注いだ薄金色の酒に、シウの取り繕い顔が映る。
先週より三十センチ冷蔵庫寄りに、成人男性二名が座れるだけの床を確保した。
来るなら来ると言ってくれれば、片づけておいたのに。
(って、新しい連絡先教えてないから言いようがないけど)
――おれ、諦めませんので。
ソンリェンははっきりそう言った。
何を諦めないというのだろう? 安アパートに遊びにくること?
憶測で「来ないで」とも言いにくい。
とりあえず、その辺の私物から発掘したインスタントワカメラーメンを手渡す。
かろうじて湯は沸かせた。
「いただきます」
「自主練しなくていいの」
湯気越しに、レッスンが早く終わった日の練習生のやるべきことをちらつかせる。
だがソンリェンは構う様子もなくカップ麺を啜った。顎が小さいのにひと口が大きい。
「食べたら、はふ、帰ります。それより、『蜜蜂の囁き』の期間限定配信が始まったんですよ」
シウは箸を止めた。すごく好きな映画だ。
この作品の監督は、最後に長編を発表してから三十年経っていて、もう映画制作はやめてしまったのかと思っていた。
それが今年、新作が発表された。合わせて過去作をリバイバルしたのだろう。
「……観たいなあ」
食いつくと思っていたとばかりに、ソンリェンが口角を上げる。
シウは我に返り、黄酒を喉に流し込んだ。
食べ終わり次第、後輩を寮に帰す。そう自分に言い聞かせる。
「この部屋にパソコンがあると思う? サブスクも契約してないよ」
「大丈夫です。大家さんがサブスクIDごとタブレットを貸してくれました。観ましょう」
ソンリェンはさらに
アパートの一階に寄ってから来たらしい。いつの間に大家のおばさんと仲良くなったのだ。
「こうしたら、お貸し切りシアターみたいです」
シウが呆気に取られる間に、ソンリェンは一歩で部屋を縦断し、玄関横にある電灯スイッチをオフにした。
煌々と光るタブレットを、「高さがちょうどいいです」とシウの服の山に置く。
そして、さっきより五センチ近くに座る。
これで何を諦めないって?
結局シウの疑問は解けないまま、並んで映画を観始めた。
(――名作は酒が進むなあ)
たびたび酒瓶を傾ける。シウは映画も好きだ。いちばん最初にできた友だちみたいなものと言える。幼い頃、絵を描いていないときは、映画の世界に遊びに行った。
そんなシウの趣味に合わせたと思いきや、ソンリェンも横で背を丸めて見入っていた。
この作品はいわゆる痛快エンタメではないのに。思ったより感性的らしい。
「リェニ、静かに浸ってるねえ」
「ヘンですか? おれの
「……うそ」
「嘘じゃありません」
はっきり考えを口にし、気詰まりしがちな練習室を明るくしてくれるソンリェンは、てっきり
ちなみにシウはお察しのとおり「Ⅰ」。
ソンリェンは視線を画面に戻さず、シウを見つめ続けた。踊ったりふざけたりしていないときの彼の顔は陰翳に富んでいる。
重心を少し傾けたらもう、額が触れ合いそうだ。
「また、おれの骨に絵を描いてください」
ソンリェンがまるで台詞を諳んじるかのよう
に言い、靴下を片方脱いだ。
露わになった踝が、映像に照らされ、色とりどりのヴェールを纏う。
シウはもはや映画の続きに気を払わず、ソンリェンを素早く観察した。先週と同じく目じりが赤いくらいだが……、結構酔っているのかも。
それを言えばシウもだろう。ソンリェンの外踝は輪郭がくっきりとして、見惚れてしまう。自分で思っていたより骨に弱い。
(少しだけなら)
――そう、少しずつ。
今日は冷蔵庫の上に避難させていたパレットと絵筆を、ぎこちなく引き寄せる。
跪いて絵の具を溶く。目線で作業開始の合図を送った。
小ぶりながらしっかり張り出した頂きを、筆で登っていく。この一週間ほどの独学の中でいちばん集中していると言っても過言ではない。
息を潜め、数億年眠る鉱石を掘り出すみたいに線を描く。
「ヒョン。練習生には戻らないんですか」
先週はおとなしく木の幹に擬態していたソンリェンが、作業中に話し掛けてきた。
……もしかして。シウの中に仮定が生まれる。
基本、アイドルは七年契約。この国の男は二十八歳の誕生日までに兵役に就く。今シウは十九歳――数字を並べて答えを組み立てる。
「韓国の男は兵役があるからさ。デビュー準備に二年必要だとして、この歳で事務所に入り直してもぎりぎりだよ」
「ぎりぎりですが間に合います」
だがソンリェンは、同じ計算問題でも違う答えを弾き出した。至って沈着な声色で。
仮定が確信に変わる。彼が諦めないのは、「シウの説得」に違いない。
――おれは、ユン・シウにアイドルになってほしいです。
先週、ソンリェンはそう口にした。
ただシウはダンス歴が長いわけでも、ソンリェンのようにビジュアルが突出しているわけでもない。
事務所の宿舎は複数あって、彼とは建物が違ったから、いちばん懐いているヒョンとも言えまい。
仲間と社員以外には日々の努力すら知られる機会なく退社した練習生は他にもいるのに、なぜシウにこだわるのか。
(僕は、きみにもったいながられるような練習生じゃない)
作業に没頭するふりで考えてみても、わからなかった。
ソンリェンがすっと顔を上げる。「わからないなぁ」と声に出してはいない、はずだが。
「御実家に戻らずソウルに住み続けてるのは、いろいろな事務所のオーディションを受けるためでしょう」
なるほど、何やら深読みしたようだ。
「うんにゃ、美大浪人生するのに便利だからだよ。ここは受験生向けアパートです」
シウはこれも淡々と説明した。強く弾き返すことのない、使い古しのバネみたいに。
「できたよ」
ふうっと足首に息を吹きかけて、絵の具乾かす。後輩の指摘は図星ではないから線がぶれたりもしていない。
この日のソンリェンは、踝に半分埋まった宝石を抱え、映画の結末を見届ける前に引き下がった。