指に掛かった息が熱い。
「え、いや……ブランクあるし、人間は描いたことないからさ」
骨はともかく人間には興味がないと言うか。うまく描ける気がしないと言うか、絵に描くものではないと言うか?
練習生時代、練習日誌の端に落書きすることはあっても、決まって人間の骨以外だった。
催眠が解けたかのようにぱっと手を引っ込める。酒のせいかヘンなことをしてしまった。
でもソンリェンは訝しむどころか、無垢床から絵筆を発掘し、あろうことか自分の紙コップに浸して解してからシウに握らせる。
「おれの骨に絵を描いてください」
平然と言い直し、腕捲りした。手首のまるい突起から肘まですんなり伸びた、美しい尺骨が現れる。肉は骨を引き立てるぶんだけついている。
シウは小さく口を開けたまま固まった。絵に描くどころか、絵を描くなんてとんでもない。そんな発想自体なかった。
にもかかわらず、ソンリェンの腕から目が離せない。煤けた蛍光灯の下でも浮き上がって見える。
「お洋服に隠れるところならおれ以外は見ません。シャワーを浴びれば消えます」
ソンリェンがなおも囁く。大声でも急かすでもないのに、不思議と納得してしまう。
(描いてもいいの? この骨に)
望むままに描いてやれ、とどこからともなく呼応する。
さっき回収したパレットを眺める。練習室と宿舎の行き来で透き徹った肌に合う、夜の底の色がある。
無色の白酒で溶けば、より深く、とっておきのインクのように薫り立った。
「……、」
黙って腕に筆を乗せる。ソンリェンが溜め息を吐く。シウはそれを赦しと取った。
白酒を含ませた筆先を、ときに大胆に、ときにやわく動かす。何度も往復する箇所もあれば、まったく通らない箇所もある。
骨に絵を描くのは、さっき顏に触れたのと同じくらい、いやそれ以上にシウを昂揚させた。思いどおり踊れたときに似た感覚だ。
見るより触るより描く――これが美しい骨の最も正しい鑑賞方法かも、なんて。
ソンリェンは熱心に筆を目で追う。まばたきを惜しんでいるのか、じんわり涙の膜が張っている。
仮死の部屋はしんとして、互いの息遣いや心音までも聴き取れた。
一拍が限りなく永遠に近づいていくーー
濃密な時間は、流れるのが遅く感じるらしい。
実際はものの数分で、以前写真で見た泰山木の花を描き上げた。
無意識に詰めていた息を吐き出す。
「できたよ。……下手だけど」
実物の花びらは可憐な白なのに、暗い色で描いてしまった。
終わってみると断ればよかった気がしてきて、シウは意味もなくTシャツの裾を弄る。
「おれだけのための衣装を着せてもらったみたいです」
一方のソンリェンは満足げに微笑み、いそいそ袖を下ろした。
「痛た……」
シウは、ぽっかり空いた床のスペースで目覚めた。折り曲げた膝と首が軋む。
ベッドはすぐそこなのだが。割と酔っていたのかもしれない。あり合わせの布を垂らした窓の光り方を鑑みるに、今はたぶん早朝だ。
緩慢に上体を起こす。懐から、乾いた絵筆とパレットが転がり落ちる。
つまり昨日までと同じ朝。
(夢、かな)
ソンリェンと酒を飲んだことも、ほっそりと長い腕に絵を描かせてもらったことも忘れていない。
ただ、本物の記憶なのか夢なのか自信が持てなかった。
退社を機にスマホごと
――いや。
淡い朝陽にパレットを翳す。見間違いでなく、絵の具が減っていた。
確かに描いたのだ。
水彩だから、あの花はもうソンリェンの腕に残っていないだろう。もったいないとは思わない。はじめからそのつもりだった。
とにかく、先輩として最後の約束は果たした。
二階と三階に二室ずつあるきりの安アパートに、あれほど美しい骨が現れることは、二度とない。
たとえば先週「デビューメンバーに選ばれました」と祝われた練習生が、今日「デビューは白紙になりました」と言われることはあり得ても、そんな事態が自分の身に起こるとはなかなか思わないわけで。
「ヒョン、夜ご飯食べましたか?」
夢めいた夜から一週間。
シウの部屋の玄関に二度と現れないはずの男が、パーカーの腹ポケットから琥珀色のガラス瓶をぬっと取り出す。
「まだだけど……?」
「お邪魔します」
「ちょっ、片づけ片づけ!」
「おれの脚でいいじゃないですか」
ソンリェンは先週より段階を飛ばして床にスペースをつくりながら、肩越しに笑ってみせた。
「おれ、諦めませんので」