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第95話 生きようとした証





百合愛ゆりあお姉さん!」


「さあ、早くこれに乗って。この導きの舟に」


「導きの……」


「そう、この舟は特別な想いが込められているの。迷える者を必ずやあるべき所へ導いてくれる。あとはあなた次第。さあ、水平線まで急いで」


 船着き場から澄美怜すみれの背を押して小舟に載せる。


「ここからはと向き合うのよ、しっかりね……さあ、行って」


―――ガシッ!


 舟を押そうとしたその手首を澄美怜すみれは捉えて放さない。


「えっ……嫌だ、お姉さんも一緒じゃなきゃ」


「……この舟は一人乗りなの」


 それが何を意味するか。澄美怜すみれは瞬時に悲嘆した。


 ……いつも兄さんと見守ってくれて……大切にしてくれてた……まだ何一つ恩を返せてないのに……。


「イヤです……」


 どれだけあなたが私の心の支えだったか……どれ程憧れてたか……どんなにかあなたが怯える日々から安心させてくれてたか……。

 そう、兄さんが抑えてくれてた闇の破壊衝動を暴発させた小6の事件……それはあなたが居なくなった直後だった。


 いかにあなたのお陰で救われてたか思い知った。 


 そんなあなたは兄さんを失ってアメリカで死にかけた……。 そのお姉さんをここで見捨てて置いて行けと?


 出来るわけない……


「いい? よく聞いて。これまでの事、全て深優人みゆとくんに聞いたわ。……この牢獄世界は幼い頃に受けた深い傷と、新たなショックを切っ掛けにあなた自身が完成させてしまったもの。……だけど、それをここまで巨大にこじらせてしまったのはあなたの自己犠牲にるものなの」


 自己犠牲……? 私の?


「違う! 私は他人想いなんかじゃない! 譲ってもらう資格もないっ!」


「資格ならもう充分あるわ。もしあの事件で深優人みゆとくんが帰らぬ人になってたら、今度こそ私は追ってたでしょう。彼を救ってくれて本当に感謝してるの」


 激しく首を横に振る澄美怜すみれ


「それに私、お姉さんが帰国してからずっと嫉妬ばかりしてた! 汚い人間なの!」


 静かに首を横に振る百合愛。


「やっぱり自覚が無かったのね。あなたのは嫉妬ではないの。生きようとして足掻いてただけ」


「……生きようと……?」



 間を置いて百合愛ゆりあは静かにも滔々と語り始めた。


「そう。生まれてきた罪悪感と消滅への衝動……それにあなたは大きく巣食われていた。そしてそれらから兄は守る約束をし、実際それが出来た……彼が傍にいる限りは。

 ……でも原因が消えたのではなく、その時々で抑え込めてただけ。逆を言えば彼がいなければ常に再燃してしまうという事。

 ところがその約束と同時に『あなたがいなきゃイヤだ』 と願われ、自分の生を全肯定してくれたその『兄のためになるなら』と、想いに応えるためにを立ててしまった。誓っても強大な衝動は消せないままに。

 この一見思いやりに満ちた〈願いと誓い〉……そう。 『あの日の約束』によって新たなジレンマを生んでしまった。

 つまり原因が消えない以上、兄の願いを裏切らないためには守られ続けていないと成り立たない、決して彼を失えない立場になってしまった。



―――これこそが兄への並外れた執着の理由。

 魂が離れさせてくれなかった本当のわけ



 嫉妬や恋の暴走に見えていたもの……あなたが、


 惹かれ、 


 譲らず、 


 探し、 


 追い求め、 


 手放そうとせず、 


 選ぼうとし、 


 足掻き続けたものたち。



 それらは全て兄の願いに応え、生きようとしたあかし


 生まれる前から受けた心の傷……この世に出て来てはいけなかったと。

 そうやって消えたかったあなたは、望んでた死を与えてくれる氷の夢にさえ抗った。


 どんなに迷っても、傷付いても、苦しくても……

 ただひたすら一途にそうして来た。


 それは彼への誠意のあらわれ。


 決して欲などでは無かったのよ。だって最初からずっと消えたい気持ちを堪え続けてたのだから……」



 澄美怜すみれは自分以上に自分を知るこの人には絶対に敵わないと悟った。そして本音を吐露する。



「……そうなのかも知れない……ずっと消えたい衝動と戦って来た。……だけど今はもうそれに応えてあげられない……結局あの人を裏切ってしまった……」


「それも彼を守りたかったからよ! こんな重い決断……あなたを責められる人なんていない。

 でもまだやり直せる。だから今、あなたは選ばなければいけないの。このまま深優人みゆとくんを排除しながら人形になる事で周囲全てを絶望させる未来か、今一度彼の願いを受け入れるか、そのいずれかを」


「でも私が戻ればお姉さんが!」


 首を横に振る百合愛ゆりあ。―――だがそうする程にこの人への今までしてくれていた恩と愛しさを感じてしまう澄美怜すみれ


 咄嗟に取り繕うように捲し立てる。


「 ……そ、そう、元々私は兄の為に全て捧げることが本望だった……気の迷いで助けを求めてしまったけど、これは間違い。

 このまま消えたらあの苦しさからだって解放される。 私も伝説の妹にだってなれる! 私はあの人の糧に…」


「心に嘘をついてはだめ!……」


 そう言って百合愛ゆりあの瞳は僅かに憐れみと、そして限り無い慈愛をたたえて、包む様に澄美怜すみれを見つめて遮った。


「……本当に優しい子。心配しないで。あなたの負ってしまった運命の傷に比べれば、私は立ち直れない程じゃない。いや、どんなに辛くても立ち直ってみせる」


 その一瞬、眼差しに鋭さが加わる。


「そしてあなたは『真に成すべきこと』に向き合うの。それが全ての呪縛からの解放になるのよ」



『真に成すべきこと……?』



「そう。 消えたい衝動は生まれる前後に浴び続けた罵声による出生への恐怖や引け目、そして熱湯や氷結の心身への絶望的なダメージのせいだけじゃない。その真の理由と向き合うの……


 自己犠牲と―――


 生まれ出る前から魂を焼き尽くす程に擦り込まれ、時に発動し、周囲を捲き込んでしまう余りに激しい恨みの感情……。

 あなたはそれを心底嫌い、誰にも向けたくなかった。

 でも消す事も切り離す事も出来ず、結果、優し過ぎるあなたはそれを自ら受け止めて、自分ごと消そうとした。


―――それが真の消えたかった理由。


 ……そんな悲しみの十字架を背負って生きてた。そして今まで十分身を挺して皆を守った。私だけはその事をハッキリ見えてたの……。

 でももう恨む必要はないから赦すの……全てを、そして自分を」



「……自分を……赦す……」



「あなたは消滅の間際で今一度踏み留まりここまで来る意志を見せた。そして再び選択の機会を得た。

 人はどんな事だろうと何か選べる内は未だ生きてると言うわ……。

 そして彼はあなたを選んだ。だからあの人の幸せを願うなら……分かるわね」


 頬に手を添え、額を合わせた百合愛ゆりあ


「彼以外で唯一、あなたの存在が私の心を守ってくれてたのよ。その誠実さ、優しさ……大好きよ。……私の可愛い本当の妹、澄美怜すみれちゃん」


 そう言って優しく口付けする。さめざめと泣き濡れて放心の澄美怜すみれの手を優しく解きながら、


「だからもう行って」


 澄美怜すみれが茫然としている間に舟を押し出すと、岸からス―ッと離れ出した。


「はっ、……待って!……だめだよそんなっ」


 身を乗り出すがもう届かない。舟は見る見る離れてゆく。更にポロポロ涙が飛び散る。


『あの頃のなき虫なままね。でもこれが姉として、してあげられる唯一の事』


 笑顔で見送る百合愛ゆりあに、『だって……お姉さん……いやあぁ!……』と泣き叫ぶ。


 ……ずっと昔から自分以上の全てを映して来た絶対的な人。これ程の人を差し置いてなんて無理……バカでごめんなさい、やっぱりあなたに兄を……あなたの方がよっぽど!


 舟のへりに膝をかけ、飛び込もうとする澄美怜すみれ


 ……そして私はお姉さんとあの人に幸せになって貰って伝説の妹に……


 だが百合愛ゆりあはそうなる事が分かっていたかの様にそんな澄美怜すみれ対して一瞬だけ、初めての厳しい顔を見せた。


 そしてついぞ見せなかった命令口調で叫んだ。




「もう前を向き


 ……私の、私達の決心をっ!!


 無駄にしては!!!」





 !! ………………ぉ……ねぇ……

 ……さん………………




「彼の命も !

 生きる誓いも!

 そして恨みの念から皆を!

 ……頑張って出来る限り守った。

 もう十分尽してきた。

 ―――だからちゃんと思い出して!」


「……」


「―――あなたこそ報れるべき存在なのよ―――」



「……あああ……うああああああああああああああああああ……」


 ただ泣く事しか出来ない。そして舟は完全に岸を離れた。



「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ご……」


 喉が詰まってそれ以上声は出なかった。




 ……うう……お姉さん……ありがとう……









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