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失われたスケッチブック

「素晴らしいですな」

 オスカーはヒゲもじゃの顔をしかめた。ヒゲの男は美術評論家であった。背はそれほど高い方ではなかったが、その鋭いまなこは鷹のそれを思わせる迫力があった。

「まったくです。この独創的な着想には脱帽です」鷺を思わせるひょろ長く痩せた色白の若者が驚愕の目をそのスケッチに向けていた。画商のパトリックである。「空模様を描いた斬新なこの線のタッチを観てください」

「うむ、間違いない。やはりヴァルターは天才だな」


 そこは長らく閉ざされた埃にまみれの地下室である。雨でずぶ濡れになった長毛の猫の臭いようなカビ臭さが立ちこめていた。


 第二次世界大戦中、ベルンハルト・ヴァルターはどこかの地下室に隠れて絵画を書き続けていたという。

 戦後の混沌とした時代を経て、現在に至るまでその場所は謎に包まれていたのだ。彼の抽象画の傑作の多くは、この時期に描かれたものと言われている。

 東ドイツでは大規模な区画整理が行われていた。土木業者が取り壊される家の床のカーペットの下に、隠された扉を発見したのは偶然であった。

 絨毯のようなほこりをたっぷりとまとったテーブルの上に、ヴァルターのスケッチブックがまるで海底に沈んだ難破船のごとく離々たる感じで取り残されていたのである。


「これは今世紀最大の発見ですな。ドイツ最高峰の画家のスケッチブックが見つかるなんて・・・・・・」とパトリックが言った。

「まったくです」

 オスカーは手袋の指を震わせながら、まるで淑女の着物でも脱がすかのように、スケッチブックのページを丁寧ていねいにめくっていった。「パトリック君。これはどのぐらいの価値があるものだろうか?」

「そうですね・・・・・・1億ユーロは下らないと思います」

「ううむ。アルテ・マイスター絵画館がすでに噂を聞きつけて展示したいと言っているそうなんだ」

「間違いなくルーブル美術館からも打診が来るでしょうね・・・・・・」


「ちょっとすみません」と、そこへ腰の曲がった枯れ木のような老婆がドアからしわくちゃの顔をのぞかせた。

「どちら様で?」

 オスカーが驚いて尋ねる。

「ああ、これだ」

 老婆はスケッチブックを指さして、まるで猿が餌をみつけたかのような仕草で部屋に足を踏み入れた。

「すまないねえ、それを返しておくれでないかい」

「え?」ヒゲ面と色白の長身が顔を見合わせる。「あの・・・・・・失礼ですが」

「それ、わたしの孫のケビンのスケッチブックだよ。もうイタズラ坊主でねぇ。こんなところに置きっぱなしにして・・・・・・」

「あなたの孫」唖然とした顔のパトリックが老婆を見入った。「いまいくつだね?」

 老婆はミーアキャットのようなきょとんとした顔で二人の顔を見た。

「まだ幼稚園児だけど、それがなにか」

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