話には聞いたことがあるが、まさか自分にそんな不幸が降りかかるなどとは考えてもいなかった。
「先生、なんとかならないのですか!」
わたしは主治医に、
「そうですね・・・・・・奥さんは交通事故の後遺症で記憶を失っているのです」
白衣の医師はカルテを眺めながら冷静に説明するだけであった。そばに居る看護師は済まなそうにうつむいているばかりだ。
「すぐに元に戻ることもあります」
頭に包帯を巻いた妻を
「戻らなければ?」
ぼくは泣きそうになった。
「一生この状態のことも・・・・・・いや、新たにあなたとやり直すということも一つの選択肢ではありますが・・・・・・」
「無理ですよ!」
わたし達は新婚ホヤホヤの夫婦だった。
それはそうだ。金持ちでもない。学歴もない。おまけに容姿だって大したことがないのである。妻の香澄かすみがわたしの愛を受け入れてくれたこと自体、わたしでさえも謎だったのだから。こんな奇跡が二度と起きるはずがないのだ。
看護師が気まずそうにうつむいている。でも小刻みに肩が揺れているのは、ただ単に笑いをこらえているからなのかもしれない。
それからというもの、わたしは連日妻のもとに通いつめた。
しかし当の
つき合いだしたばかりの頃、デートで買ったお揃いのペンダントをみせる。妻は新手の詐欺かなにかではないかという顔をするばかりだ。
妻の好きだった、わたしの唯一の得意料理『おぼろ豆腐』を作って病室で食べさせてみた。毒でも入っているかのような顔をして箸もつけなかった。
誕生日にわたしが自作した愛の歌をギターで唄ってみた。妻は耳を
とうとう香澄はわたしに最後通告を出したのだった。
「もういい加減にしてちょうだい。いいこと、わたしがあなたみたいな男と結婚なんてするわけないじゃない。よく鏡を見てから考えなさいよ!」
わたしの中で何かが音を立てて砕け散った。
「ああもういい!お前なんかもう知るもんか。離婚だ。離婚してやる。これでも喰らえ!」
逆上してしまった。気がつくと、わたしはこともあろうに、妻の顔面めがけて
「・・・・・・伸ちゃん。伸ちゃんじゃない。あたしどうしちゃったのかしら?」
女性は男性よりも匂いに敏感なのだそうだ。どうやら妻は、わたしの強烈なガスの匂いで記憶を呼び覚ましたらしい。周囲を見回している。
「ここって病室よね。お医者様は?」
「いや、しばらくは誰もこの部屋に入れることはできないよ。いろんな意味でね」