目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報
10年後の涙

 わたしは今でも忘れられずにいる。あの時のあの男の眼を・・・・・・。


 その日わたしは久しぶりに休みが取れたので、ひとりで街を散策していた。わたしの住んでいる街は振興住宅地で、まだ新しく建てられた家が多い。近頃の家はオシャレなうえに趣がある。ここにこんな家があったんだと驚かされることがたまにある。

 ふいにある家の前でわたしは足をとめた。小さな庭のある家だった。子犬がわたしに向かって吠え立てていた。

「なんだ、不審者とでも思われたのかな」

 わたしは頭をいた。すると犬は低いとはいえ、家の柵を飛び越し、わたしの周囲を回りはじめたではないか。そしてワンワンと、さかんにわたしに何かを訴えているようだ。しまいにはわたしのズボンの裾を噛み絞めながら、家の中に引き入れようとする。これは尋常じんじょうではない。

「どうしたんだい。何かあったの?」

 玄関の鍵は空いていた。留守宅ではないらしい。

「ごめんください」

 しかし返事は返ってこない。背後からさらに子犬が吠えたてる。それがなぜか「家にあがって」と聴こえたのだ。仕方がない。家人には事情を話して許してもらおう。

「失礼しまぁす。怪しい者ではないでぇす」

 わたしは靴を脱いで、最初の部屋のドアに隙間が空いていたのでそこから中をのぞいてみた。わたしは一瞬、血の気が失せた。血まみれの男が、必死の形相でわたしの方に手を伸ばしていたのである。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 わたしはすぐに悟った。自刃じしんである。

 男はカミソリで首の頸動脈けいどうみゃくを切り、自死を図ろうともがいていたのだ。思いのほかカミソリが切れず、頸動脈を切断しようとして途中で止まってしまったものと思われる。

「く・・・・・・苦しい。お願いだ・・・・・・楽にして・・・・・・くれ。頼む」

 男は真っ赤な泡をゴボゴボと吹きながらわたしに訴えていた。その目は真剣そのものである。わたしは男に近づき、カミソリを静かに抜いた。噴水のように血が噴き出す。

 男は「ありがとう」という言葉にならない言葉と、感謝の眼差しを私に向け、糸が切れたマリオネットのように動かなくなった。

 わたしは、すぐさま清潔なハンカチを傷口に押し当て、ポケットに入っていたボールペンをへし折り、男の喉に突き刺した。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 実はわたしは外科医だったのである。

 ボールペンの柄を突き刺したのは気道を確保するための処置だった。あのままだったら、自殺幇助ほうじょでわたしが捕まってしまう。しかし、もしわたしが医師でなかったらいったいどうしただろう・・・・・・答えは出ない。

 その後すぐさま男は救急病院に搬送され、わたしの応急処置のおかげで一命を取りとめたのだそうだ。数日後わたしは男に会いに行った。勝手に家に侵入したことを、詫びておこうと思ったのである。

 ところが病室に入った男はわたしを見るなり、辛辣な言葉をわたしに浴びせかけた。

「なぜあのまま死なせてくれなかったんだ。せっかく楽になれると思ったのに」

 恨みがましい目で私をにらみつけたのである。わたしは言葉を失ってその場に立ち尽くしてしまった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 あれから10年の歳月が流れた。


 それは偶然であった。友人の結婚式であの時の男とばったり再会した。男はすぐにわたしに気がついて近づいてきた。そしてわたしの両手を取りこう言った。

「その節は本当にありがとうございました。おかげで娘の花嫁姿を見ることができました。全てあなたのお陰です」

 男の眼から涙が流れていた。

 わたしも涙をこらえ切れなかった。そして男をしっかりと抱きしめて泣いた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?