気がすすまない。でも自分の娘のためとあれば仕方がない。これで完全犯罪の成立である。
わたしは耳鼻咽喉科の医師である。
娘が彼氏を連れて家に来た。それがどう考えても、わが娘を幸せにできるとは思えない男なのであった。まず定職をもたず、生活力がない。上背はあるが、やせ細っていて今にも倒れそうだ。しかも前髪が長くて、目が隠れているためどこを見ているのかも分からない。最初“ロッカーです”と言うから物でも入れるのかと思ったら、ロック・バンドをやっているのだと苦笑された。
それでも一応、娘が気に入ったといって連れて来た男である。頭ごなしにお前なんかに娘をやれるかバカ者などと言えるはずもなく、少々情けない話だが、主な会話は妻に任せて、とりあえずニコニコ笑っておいたのである。
「君は花粉症じゃないのかね」
わたしとしては、無理矢理ひねりだした渾身の会話の糸口であった。いまや国民の4割が花粉症に悩まされているのだ。
「お父さん。実はそうなんですよ。ぼくはリード・ギターだからまだいいんですけどね。これがボーカルだったらえらいことになっちゃいます」
頭をかきながら男が答える。
「あら、でもジョーくんだってコーラスやるじゃない」
娘の早奈江が彼氏の顔を見る。
「じゃあ、ちょっと診てあげようか。診察室に来なさい」
「え、でも」
「遠慮はいらんよ。診察代もサービスだ」
「まじですか。助かります」
(いや君は助からんよ)と心の中でわたしはつぶやいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「その後ジョー君とはどうだ」
わたしが尋ねると、娘は嬉しそうに顔を輝かせた。
「ええ。とっても元気。良くなったみたい」
「そうか・・・・・・それは良かった」
おかしい。ジョーの鼻孔の奥には、わたしの調合した薬をたっぷり塗りこんでおいたはずだ。あの薬はアルコールを摂取すると、溶けて激しいアナフィラキシーショックを発生させる。最悪の場合は死に至る。
「ところで、ジョー君はお酒はいけるのかね」
「あら、彼は下戸よ。ああ見えて一滴も飲めないの」
「!」愕然とした。
「それは残念だなぁ。ジョー君に今週末、娘の親として一杯つき合ってもらいたいと思っていたんだが・・・・・・」
「へえ意外。あたしお父さんジョー君のこと、絶対好きじゃないと思ってたんだ。じゃ、今日話してみる」
娘は明るく答えて、出て行った。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
週末わたしはジョー君と差しで飲みに行った。なんとかこいつに一杯飲ませなくてはならない。
ジョー君はわたしと同席できたことに感激していた。そして涙ながらに身の上話をし始めたのだ。
彼は幼いころに父親を亡くし、母と妹の三人で暮らしてきたのだという。とにかく貧しい生活で、家計のために小学生のときから新聞配達と牛乳配達を掛け持ちしたという。妹のために、給食を半分残して持ち帰ったり、年末にはケーキを貰うためにケーキ屋でアルバイトをしたのだそうだ。当然上の学校にも進めず、ようやく就職した会社も倒産し、今はアルバイトで食いつないでいる。でも将来は音楽で食べて行きたいと明るく夢を語ってくれた。
わたしは外見ばかりを気にして、ジョー君の人となりを完全に誤解していたようだ。
別れ際にわたしは言った。
「明日もう一度うちに来たまえ。診療の続きをしてあげるから」
「いいんですか」
「娘の旦那になる男をちゃんとしてあげなきゃ」
「ありがとうございます!」
ジョー君は最敬礼していつまでもわたしを見送ってくれた。最敬礼をしたいのはわたしの方だ。すぐにでもあの薬を取り除かなければならない。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
翌日、約束の時間になっても彼は現れなかった。
「早奈江。ジョー君、遅いわね」妻が心配そうに言った。
「だいじょうぶよ。すっごく喜んでたから」
「そうなのか」わたしは玄関の方を顧みた。
「うん。昨日お父さんに認めてもらったって、ひとりで飲めないお酒で祝杯をあげるんだって言ってたのよ」