「そこの兵隊さん。中華そば食っていかないかい?」
花形がイヴァンにそう声を掛けたのは、第二次世界大戦が終了して間もない頃のエトロフ島だった。
「おれのところの中華そばは日本一なんだぜ」
見ると屋台に毛が生えたぐらいの小さなラーメン屋が、何もない平原の上にまるでお座りをした犬のように鎮座しているのだった。
「チューカソバ?それはボルシチよりもおいしいのですか?」
「あたぼうよ。おれはね、戦争は食文化で解決できると思っているのさ」
「いくらですか?じつは今、ルーブルしか持ち合わせがなくて」
「いいよ。レートなんてわかんねえから、今日は日露友好のためにこの花形源三がご馳走してやるよ」
イヴァンの表情に明かりがさした。
「悪いね。実は隊とはぐれてしまって、しかも空腹で死にそうだったのだ」
差し出された中華そばを、イヴァンが器用に割りばしで食べ始めた。
「兵隊さん。箸の使い方馴れてるね」
「うん」イヴァンは平たい縮れ麺を掻き込みながら「じつは日本食が大好きなのだ」と言った。
透明感のある醤油味のスープは、豚骨と煮干しの出汁が効いている。イヴァンはスープまで飲み干した。そして空になったどんぶりを花形の前に置いた。
「ご馳走さま。これは美味しいですね!」
花形源三はイヴァンの食べっぷりに満足した。これなら行ける。軌道に乗ったら色丹しこたんと国後くなしり、歯舞はぼまいにも店を展開しよう。
「わたしはイヴァン軍曹です。この味ならみんなにも勧められます。お店が繁盛するよう上官に便宜をはかりましょう」
イヴァンは心ばかりのルーブル硬貨をテーブルに置いたのだった。
「本当かい。そりゃあ助かるな」
花形とイヴァンは握手をしてその場を別れた。
しかし、ロシアとの間で“北方領土問題”は、ますます悪化の一途をたどるのであった。日本にとっては昔から自分たちの土地、ロシアにとっては太平洋に抜ける重要な不凍海の拠点なのである。双方どちらも譲ることはできないようなのだ。
花形の中華そば店はロシア軍の間でしばらく評判になったが、ロシア上層部の圧力で商売を続けることができなくなってしまった。花形はやむなく本州に戻り、福島県に店舗を移転したのだった。
そして10年後、花形の店にイヴァンが訪ねてきた。
「花形さん、やっと会えました。わたしはあの時の味を忘れられませんでした。よかったです」
「おうイヴァン。よくここがわかったな」
「お店の名前をみてピンときましたよ。『