「おい結城。先方のアポイントは取ってあるんだろうな」
上司の
「あ、いいえ。A商事の専務は部長が懇意だから連絡しておくとおっしゃっておられ・・・・・・」
「なんだと」荒隈部長がぼくに氷のような視線を向ける。
「おれがアポ取るっていつ言った。懇意だから挨拶しておくと言っただけだ」
地獄の底から聞こえてくるような不機嫌な声だった。
「す・・・・・・すみません。すぐに取ります」
ぼくは受話器をとって短縮ボタンを押した。
「ち。使えねえな」
荒隈部長のつぶやきが胸に突き刺さった。
そこへ
「荒隈部長。すみませんが、結城くん少しお借りしてよろしいでしょうか?」
口元に春風のように穏やかな微笑をたたえている。
「彼にしか出来ない仕事がありましてね」
荒隈は春日を一瞬にらみつけ、あらぬ方を見て言った。
「持ってけ」
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「結城くん。だいじょうぶか。荒隈部長にだいぶ絞られていたみたいだったけど」
ぼくは春日部長に連れられて、会社の廊下を歩いている。
「はあ・・・・・・見られてましたか」ぼくは頭を掻いた。「まあ、ぼくがいけなかったんです。反省しないと・・・・・・」
「はは」春日部長がにこやかに笑った。
「無理するなよ。荒隈部長の新人いびりは今に始まったことじゃない」
ぼくは現在ふたつの部署に所属していた。だから上司も二人いるのだ。ひとりは第一営業部の荒隈部長、そして販売企画部の春日部長だ。なぜそうなっているのかというと、わが社の場合、新人には複数の部署に所属させて適正を測り、最終的に適材適所に配属させるという方針を取っているからである。
噂によると、販売企画部は天国、第一営業部は地獄と言われている。要するにぼくは天国と地獄の間を行ったり来たりしているのだ。
「ところで先日頼んでおいた資料はできているかな」
「はい、新製品のマーケティング調査のまとめですよね」
「うんそうだ」
「プレゼンソフトでまとめてありますから、後でUSBに保存してお渡しします」
「いやあ。助かるよ、ありがとう。ぼくはちょっと忙しくてね」
「とんでもないです」
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「いやあ素晴らしい。この資料はきみが作ったのかね」
会議の席上で専務が春日に訊いた。
「はい。わたしが作成いたしました」と、春日はにこやかに笑った。
「そうかね。だが・・・・・・この男女の比率がおかしいんだが、これはなんだ」
「え・・・・・・」
春日は一瞬資料に目を落としたが、ちょっと微笑して言った。「この部分だけ新人の結城くんに任せたんです。よく確認しておけば良かったな・・・・・・たいへん申し訳ございません」と言って深々と頭を下げた。
会議の間中、春日部長はぼくと目を合わせることをしなかった。
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「おい結城。今晩つき合え」
終業後、ぼくが帰ろうとしていると荒隈部長が睨みつけてきた。
「え・・・・・・でも、ぼくちょっと」
ぼくはできれば一瞬でも早く荒隈部長から離れたかったのだ。
「なに。明日の商談の打ち合わせをしようって言ってるんだ」有無を言わせぬ口調だった。
巻き込まれるのを恐れているのだろう。周りの社員はだれもが顔を伏せている。
荒隈部長に連れて行かれたのは高架下の一杯飲み屋だった。
「どうだ。安い、汚い、旨い店だ」
荒隈部長が不機嫌そうに言う。
「荒隈さん。安い旨いはいいけど、汚いは余分だよ」
鉢巻きをした店主が笑う。
それには応えず、荒隈部長はぼくのグラスにビールを注いだ。ぼくは両手でそれを受け止めた。
「結城。明日の商談だけどな」
「はい」
一応形なりに乾杯をする。
「おれは黙っているから、お前ひとりでやってみろ」
「え。それはちょっと・・・・・・」
「いいからやれ」
荒隈部長はビールをぐいっと飲み干す。すかさずぼくは部長のグラスをビールで満たす。
「はあ・・・・・・」
「結城、うちの会社をどう思う」
「どうって言いますと」
「ダメな会社だろう」
「いいえそんな」
「腐ってる。何もかもが」
腐ってるのはあなたの方じゃあ・・・・・・と心の中で思って胃が痛くなった。
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第一営業部のオフィスに突然専務が現れた。
「A商事との交渉は誰が当たったんだ」専務の興奮した声が部内に響き渡る。「わが社始まって以来の大成功じゃないか!」
荒隈部長がおもむろに顔を上げた。
「新人の結城くんです」と言って関心なさそうにぼくを指さした。
「なに?本当か」
「本当です。わたしは何もやっていません。彼ひとりの実力です」
専務がぼくに両手で握手を求めてきた。
「ありがとう。きみのお陰でわが社の積年にわたる悲願が叶ったのだ。素直にお礼を言わせてもらうよ」
ぼくは荒隈部長の顔を振り向いて見た。その時ぼくは荒隈部長の嬉しそうな目を初めて見た気がした。