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ボクサー

"今度の週末は会えるのかなあ"

 千鶴ちずからのメールだった。

 ぼくは今、ボクシングフライ級の日本チャンピオンを目指している。だから練習を優先させるため、千鶴とのデートの時間はどうしても減らさざるを得ないのだった。

 ぼくは返信を打った。

"ゴメン。来週の試合の準備があるんだ"

"ふうん。そうなんだ"

"ほんとうにゴメン"

"それじゃあ、しんちゃんのジムに遊びに行っちゃおうかなあ(笑)"

"え。ま、いいけど・・・・・・体験入会だったらジムは大歓迎だと思うよ"

"ほんとう。やった!千鶴がんばる"


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 週末、千鶴は白いベレー帽にヒラヒラのワンピース姿でジムにやってきた。とてもボクシングを体験するような恰好ではなかった。

 多くの練習性が一瞬手を止めたが、またすぐにもとの練習に戻る。パンパンというサンドバックを打つ音。ブルンブルン動くパンチングボールがはじける音。高速で縄跳びをしている音などが混じり合う。

 でも彼らの視界の隅に、千鶴が入っているのは明らかだった。

 ぼくはとりあえず千鶴をトレーナーに紹介して、ロッカーで着替えさせた。千鶴は背負っていたリュックから、赤いトレパンのズボンと胸にひよこの絵が入ったTシャツを取り出して身に着ける。靴は学校の上履きに履き替えた。

 ぼくは千鶴をトレーナーに任せてスパーリングに戻った。

 千鶴はトレーナーの言われるままに、華奢な身体を使って細い腕を動かしていた。

 しばらくスパーリングをこなしていると、遠くでパンチのいい音が聞こえてくる。ギアヘッドを着けて、トレーナーのパンチングミットに向かって千鶴がパンチを入れていたのだ。

 その周りに練習生が集まっている。

「すげえパンチじゃん」

「ほんとに初めてかよ」

 などと言い合っている声が聞こえる。


「真。ちょっと来い」

 トレーナーがぼくを呼んだ。

「千鶴ちゃん、経験者でもないのにすごいパンチだぞ。お前いい練習生を連れてきたな」

「本当っすか」

 千鶴は恥かしそうにモジモジしている。

 実はパンチ力というのは、見た目のいかつさや筋肉質の体形とは必ずしも比例するものではないのだ。この世には一見ひ弱に見えて、すごいパンチを打つ者が存在するのだ。それが千鶴?

「真。お前ちょっと受けてみろ」

 トレーナーに言われてぼくはミットを受け取った。

「千鶴。手加減せずに、思い切り打ってみろ」

 ぼくは千鶴の前にパンチングミットを構えた。

「ええ、なんか恥ずかしいよ」

「千鶴ちゃん、行けえ!やっちまえ」

 周りの練習生が囃し立てる。

「それじゃあ・・・・・・」

 千鶴の手が一瞬動いた。目にも止まらぬ速さで、8オンスのグローブがミットに向かって叩きつけられた。ぼくは衝撃を受けて後ろの壁に吹っ飛んだ。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 ぼくはトレーナーと一緒に、千鶴のセコンドに入っていた。

 フェイスガードタイプのギアヘッド、胸部ガード、子宮ガードを装着したほっそりとしたボクシング女子がそこに立っていた。

 世界女子ボクシング選手権のリングである。

 ぼくは世界チャンピオンになる夢をあきらめた。その代わりにあの日、千鶴を世界チャンピオンにすることに決めたのだ。


 2分間、10回戦のゴングが鳴り響いた。千鶴はフワリと踊り子の様にリングに飛び出して行った。

 それは一羽の鶴が、大空に向かって飛び立つみたいに見えた。

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