それから数日、伏見は学校に来なくなった。
よく考えると、彼の家を知らない。彼の事を本当はあまり知らなかったのだと痛感させられた。
クラスで伏見の話をしている人はいなかった。私と仲良くしているからもう仲間でもないと思われていたようで、伏見の話を意識してしないでいる……、そんな感じだった。
伏見は自分がいつでも消えてもいいように、準備をしていたのかもしれない。自分がいた記憶や自分がいた痕跡を残さないようにそういう死に支度をしていたのかもしれない。
「水島、伏見の家知ってる?」
「知ってる。けど、教えない」
水島はうつむいたまま、答えた。
「奏太くんが救われることはないよ」
否定するように私は首を振る。
「そうじゃない。救おうなんて大それたこと考えてない」
「それなら、ほっときな。そうじゃないと……、わかるでしょ?」
水島は冷徹な顔をして、早紀美ちゃんの絵を描き続けている。そうやってずっと死ぬまで早紀美ちゃんの絵を描き続けるんだろうか?
自分を偽って、悲しい気持ちを押し殺して、早紀美ちゃんの面影を追い続けるんだろうか?
「あんたさ。死ぬまでその写真の絵描き続けるの?」
水島は筆を止めた。
「ああ、うん。そうだよ」
筆を止めて水島はこちらを空ろな目で見つめた。
「僕にとって彼女は、一生をかけて覚えていなくちゃいけない。救えなかったかけがえのない人だ」
人間らしいのか、狂っているのか理解ができないほどに、彼はまっすぐに答えた。空ろな瞳の中に、映るのはただ懺悔や後悔なんてありふれて理解できる感情ではなく、ただただ自分の愛した人を求める愛に飢餓した惨めな人の姿だった。ただもうそれしかないという縋るような姿それだけだった。
「……理解できない」
「理解してもらおうとなんか思ってない。人にはいろんな愛の形があるんだ。それは他人に理解してもらうために突き通すものじゃないよ」
水島は悲しそうな顔をした。けれど、それでも描いているときの水島は、安らいだ表情をして、幸せそうなのが余計に痛かった。
「愛する人を亡くして、新しい恋をして、それで前向きに生きていく。それが死別の物語のテンプレート。だから僕には新しい恋人がいるし、そこそこ幸せなふりをする。それが亡くした人にできる唯一のこと。一生悲しんで、一生覚えていてなんてそんなこと望める人間のほうが少ないんじゃないかな? それでも、亡くしてしまった愛を貫くのもいいさ。それも一つの愛の形だよ。けれど、それをすると早紀美ちゃんが救われないだろ? 一生愛する人の悲しみを天国で見つめながら、自分のことを責め続けるなんて可哀そうじゃない? だから物語の死別のテンプレートは救われるように書かれているんだ」
そういった水島はもう悲しそうな表情をしていなかった。
笑っていた。とろけてしまうほどに幸せそうに。
「僕はね、彼女が悲しいのが一番つらい」
だから笑えるというのか、だから一番いい方法をとれるというのか。そういうことをしたくてしているんじゃないのは痛いほどわかるのに……。水島は自分の気持ちよりも、彼女の幸せを願った。ただ水島は本当に彼女のことを愛していたんだ。
それは幸せだろうか? 哀れにさえ見えるその言葉に、それでも満足で幸せそうな表情い、私は不覚にも涙が出た。
「君は情に脆いね」
水島は穏やかに笑い、そうしてこういった。
「ありがとう」
水島が私にありがとうと言ったのは後にも先にもこれが最後だった。
「伏見の家教えて」
「言葉にしないとわからないわけでもないでしょ? 殺されるよ」
私は明確な作戦があったわけではなかった。けれど、行かなくては伏見が死んでしまう気がした。
「このままにはできないよ」
「お人よし」
貶すように言った水島の言葉が自分に刺さった。
「君はそういう偽善者が嫌いなんじゃなかったのか?」
私は偽善者が嫌いだ。いいと思うことをする、それで相手を傷つけてめちゃくちゃにする、そういう人間が大嫌いだ。けれど、しょうがないじゃない。
「良い事しにいくわけじゃない。私は自分の我がままを突き通しに行く」
私はそう言い切ると、水島は目を丸くして噴き出すように笑った。
そういうと、水島はぼそっと呟いた。
「僕が君のような人だったら……」
水島はそういうと、まっすぐ私を見据えてこう言った。
「賭けをしようか? 僕は奏太くんの住所を教える。君が殺されたら僕の勝ち。でも、もし君が生きて奏太くんを変えることができたら、僕はもう奏太くんに死をけしかけることはしないよ。いろいろ悩むけど、僕は願ってるよ……」
水島は何をか、言うことはなかった。けれど言いたいことは分かった。
「……ありがとう」
いい澱むようにお礼を述べると、水島は優しい笑顔でこう言った。
「また。会えるといいね」
「うん」
私は笑わずに言った。
「またいつか」
伏見の家は博物館の近くの住宅街の中にあった。家でできた迷路のような入り組んだ場所で行くまでにたくさん迷った。それでも歩みは止めずに来た。私にしては何も考えなしで来てしまって、どうするとか何も考えていない。
チャイムを鳴らすのもためらいはなかった。水島にもらった住所の紙をくしゃりとつぶす。チャイムを鳴らすも応答はなく、二度目のチャイムを鳴らす。
いない?
よく考えたら、居留守をつかわれることを想定していなかった。だいぶ、思考が止まっているようだ。頭を回すのは得意なはずなのに。私は動揺していたんだ。
三度目のチャイムを鳴らしたが、応答はなかった。しかし、このまま帰るには間抜けすぎる。鍵でも開いていればいいのにとドアノブに手をかけると、意外なことをドアが開いた。
勝手に他人の家に入ることに躊躇うぐらいは私にだって常識がある。しかし、このまま放ってはおけなかった。
私はそっとドアを開いて覗いてみた。しんと静まりかえる玄関の奥にはフローリングの廊下、その奥には居間に繋がっているようだった。その奥に階段がある。
本当は不法侵入なんてしたくないが、私はそっと靴を脱いで家の中に入った。薄暗闇の中、階段から光が入ってきている。
「伏見? いるの?」
これがばれたら、不法侵入で捕まるんじゃないかと思ったが、殺されるのを覚悟してきてそれぐらいで済むならそっちの方が助かるなと内心ほっとしていた。
伏見の部屋は二階だろうか? 私はそっと伏見の名前を呼びながら階段を上がった。
階段をのぼりきると、正面にベランダ、左右に部屋があった。
「沙雪……?」
ベランダからは断末魔のような沈みかけた光が放たれていて、夕方だということがわかる。もうそんな時間かとベランダから見える夕日を見ていると、後ろから声をかけられた。
ふり返ると、ぼんやりと寝ぼけた表情の伏見が亡霊のように立っていた。
「よかった……生きてる」
私は思わず伏見の頬に手を伸ばし、生きていることを確かめた。肌にはちゃんとぬくもりが感じられる。泣き腫らしたような瞳には元気こそなかったものの、血の通った人間の匂いがした。だから私は、泣いてしまった。
伏見が死んでしまったあとだったらという不安は捨てきれなかった。怖くてたまらなかったのだ。
他に何か言葉にしようと思ったけど、何も言えずに浮かんだ涙をごしごしとぬぐった。
「そんなに強くこすったら痛いだろ」
心配するように私の肩に手を置いた伏見を睨んで泣きじゃくりながら言った。
「バカ。……自殺すると思った」
涙声の自分がひどくみすぼらしく感じた。死なれたら悲しい存在になり果てた伏見は、少し潤んだ瞳で鼻声でいう。
「バカだなぁ」
「バカじゃ……ない」
いつの間にかぎこちなくなっていた言葉に私も伏見も安堵していたと思う。
元に戻れるんじゃないかって。でもその安易な想像は簡単に覆される。
「沙雪は俺が死んだら悲しい?」
背筋に氷が這うようなおぞ気に言葉を失う。
「えっ……?」
何も言わないで笑うその姿が本音を語っていた気がする。伏見はいつも自分の醜悪さを冷静に判断している。そして人間らしい部分が自分ごと葬ろうとするのだ。まるでそれが正しいと言わんばかりに、良心の呵責耐えられないのだ。
「どうして?」
それをわかっていて、私は聞いた。
「君を一瞬でも殺そうと思ったからだよ」
命が大事というのは、本当は命が大事じゃないから掲げるスローガンで、もし誰もが守る絶対的な事柄じゃない。それなら人は命を大事にするだろう。だから、彼が大事な人を失くしたくない一心で自分から私を守るために死を選ぶのは、理解しがたいことなんかじゃない。
「人を……もう、殺したくない」
死を望む人が助けを求めて言う戯言じゃないのだ。彼のは本心だ。私が生きてほしいなんて押し付けをしたって彼が苦しむだけだってわかってた。
私は何もしてはいけない。誰が何を言ったところで、それは間違えだ。だからもう、苦しめていけない。けれど――。
「死なないで」
涙が流れた。それはまるで自分の殻が剥がれ落ちていくような感覚で、私が身勝手で浅はかで自分勝手だという証明で……私が人間だという証だった。
「死なないで。お願い」
縋るような願いを打ち明けた。苦しめる言葉を打ちつけた。それなのに、心は穏やかでまっすぐ嘘のない言葉だった。
「沙雪は殺されてもいいの?」
「よくない……けど、死なれなくもない。人間は感情の生き物だよ。しなきゃいけないことと望むことが反してたって仕方がないじゃない」
矛盾は自分を蝕むとわかっている。けれど、矛盾は生まれていく。感情に飲まれる人間が愚かだと思っている。今でもそうだ。私の選択肢は間違っているし、愚かだ。
けれど、わかっててそれを選ばなければ一生の後悔になるんだ。
バカじゃないと進めないことだってあるんだ。だからお願いだ、死なないでほしいと思うことを許してほしい。
「沙雪を殺したくない」
「じゃ、殺さないで!……ずっと一緒にいて」
「できるかわからない……」
「できないって言えないなら、生きて」
それで何か解決するわけじゃない。私に打開案はない。けれど。
「生きていかなきゃ、なんだって望めないんだよ」
それは母が自殺していた時思った。
もしかしたらを想像せずにはいられなかった。もし、最後まで病と戦っていたら、もし自殺しなかったら、きっと見えていたことや悲しみは違ったかもしれない。
「もし母さんが癌と戦っていたら、勝ててたかもしれない。結果がでないうちに戦うのをやめないで。生きてることはいろんな感情と戦うことだよ。逃げないで、殺したらどうしようで死ぬんじゃなくて、殺してから自殺してよ。あんたはまだ私に何もしてないよ」
その瞬間、伏見は苦い笑顔を浮かべた。
殺してから自殺してなんて……私はなんてひどい奴だ。純度100%の我がままだ。それを一番望まない人間が望まない結果を出してから死ねなんて。本当に殺したっていいほどひどい言葉だ。
けれどそうじゃないと私が悲しい。私が、悲しくてたまらないんだ。
西日は部屋を照らし、焦がしていく。黒い影が焼き付くように暗闇が侵食していく部屋に伏見はついに立ち上がって、照明器具をつけた。
「うん。わかった」
ひどい約束をさせてしまったことよりも、生きててくれると約束してくれたことがうれしくて泣きじゃくった眼を拭いながら、顔をあげた瞬間のことだった。
伏見の顔を見た。いろんな感情に押しつぶされた狂った表情をしている。笑っているとも見れるし、泣いているとも見れる、怒っているとも見れるし、嘆いているようにも見えた。
わがままを言ったから、彼は壊れてしまったんだ。
突然のことで頭がフラッシュを浴びたようだ。視界がチカチカと暗く明るく点滅する。首を腕で押さえつけられて、頭が真っ暗にシャットダウンしそうだ。
息ができない。思考が回らない。伏見の顔が見れない。何を思って首を絞めているの? そこまでするほど死にたいのか? わからないし、わかりたくない。
私は自分の死を受け入れてはいけない。
死んでたまるか、殺されてたまるか。伏見を死なせてたまるか。
けれど、私はどうすることもできず、視界が明るくなって茫然と思った。首、絞められたら視界が明るくなるだな、なんて他人事のように思ったその瞬間、伏見は目を見開いて手をどけた。
「どうして、俺は……」
伏見はそういって涙を流すと、落ちていた文房具で自分を何度も深く刺した。何度も何度も……。血が刺さって開いた小さな穴から噴き出したり、垂れたりしてフローリングを汚している。でも、それよりも泣いている伏見が可哀そうだった。悲しかった。こんなに優しい人なのにどうして壊れてしまったのか、それを考えると、彼が早紀美ちゃんを殺してしまったあとに何を思ったか、どれほど自分を責め自分に失望したか、手に取るように分かった。
私はそれでも、彼に生きてて欲しかった。正面に座ると私はふらつく体で出来る限り強く伏見を殴りつけた。
それを見た伏見は我に返ったように私の顔を見る。壊れてしまいそうな危うさを秘めた無表情で、私の言葉を待った。
「自分を傷つけるな」
そう冷静に言った瞬間、伏見はたくさん涙をためて顔をくしゃくしゃにして泣き出した。私の頬を力なく何度も触れて縋るような表情で私を見つめて言う。
「……バカじゃないの。殺されかかってんじゃん」
「殺されてない」
私は言い張った。
「私は意地でも殺されない」
なんの根拠もなかった。異常なこの男の面倒を一生見るつもりなんかない。けれど、それでも答えを見つけるまでは死ねないし、死なせない。
「……バカだ。沙雪は本当に……バカだ」
泣きじゃくりながら、彼は何度も何度も言う。口癖は移るものだなと心の中で笑いながら、胸をなでおろした。
お母さんは言っていた。
「幸せには形があるの」
「どんな形なの?」
私は話半分に聞き流しながら、テレビを見ているとふいに母に後ろから抱きしめられた。
「沙雪の形」
そういわれた時、私は母に愛されているんだと実感して私の幸せは母の形をしているんだって思った。それなのに、母は癌になり自殺をした。
当時は恨んだし、悲しかったけれど今だからわかる。母は自分がいなくなることで、私という幸せが壊れてしまうのが分かっていたんじゃないかって思ったのかもしれない。
幸せは簡単に壊れてしまう。何かが欠けただけで脆く儚く砕け散ってしまう。
私はそれ以来、人と親しくなるのが怖くなった。絶妙なバランスで釣り合っている幸せが音を立てて崩れていく瞬間を目の当たりにして私は憶病になっていたのかもしれない。
そんなことを思い出しながら、放課後の部活で水島にあった。
「でっかいキスマーク」
からかうように、首を絞められた痣のことを揶揄して笑う水島は、少し安心した顔をしていた。
「バカ。生きてたことに喜べ」
私は水島と友人になれた気がした。水島が何を思っているかわからないけれど、私にとってはもう何もかもを話せる友人な気がした。
「また会えると思ってなかった。でも結構大変だったみたいだね。首へし折られなくてよかったね」
「うん」
私は安心してこぼれるみたいにほほ笑んだ。
「で、君は奏太くんが好きなの?」
恋愛をした経験が乏しい私にとって、伏見が好きかと言われれば、好きなんだと思う。
彼の世界を見たいと思う。彼の考えていることが知りたいと思う。なにより、私はいろんなことに気づくんだ。
この色のない世界が色を失ったままでも色づくことを知ったのも彼がいたからだろう。
「たぶん……」
「うん、まぁいいんじゃない?」
水島は油の具を混ぜ合わせて色を作ろうとしている。その中途半端に混ざったマーブルがきれいで、茫然と絵の具を見ていた。
「どうしたの?」
「えっ、うん。なんか……白と黒しかないはずなのに、絵の具がきれいに見えて」
そういうと水島は優しくほほ笑んだ。
「恋でもしてるからじゃないの?」
私は一瞬、思考が止まって戸惑うように言い募った。
「そう、なのかな?」
「かなりエキセントリックな恋だけどね」
私は言葉を詰まらせてから、ため息をつくように言った。
「しょうがないよ」
水島もにやりと笑って繰り返した。
「本当に、しょうがないね」
伏見との一緒にいると幸せなのに、かなりの絶妙なバランスで簡単に崩れてしまうとわかっている。それでも、大事にすると決めた。
結末をみるまでは終われないと決めた。今度は見よう。この幸せの結末を。
「バーカ」
私は笑顔の伏見を描いたキャンパスに吐き捨てた。