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第4話 人が壊れるということ

 その夜、私は狭苦しい部屋の中で絵本を抱きしめて、匂いを嗅いでみた。紙の匂いとは別に色彩の匂いがした気がした。

 伏見はどんなことを思って、この絵本を買ったんだろう。私の反応をみて喜ぶことを想像してレジまでもっていってくれたんだろうか?

 それを想像すると、心がくすぐられるようにこそばゆい気がした。

 四畳半の部屋の中は、布団と山積みにされた文庫本があるだけで女の子らしいものはない。そこに分厚い絵本が足された。それだけうれしくてたまらない。この狭い部屋は白黒見えても、見えないだけでカラフルなんだ。きっと畳だって、ふすまだって布団にだって色があるはずだと思うと、すごくすべてが新鮮に見えた。

 母が死んでから、私は父と離れて暮らすようになった。父は寡黙な人で、母が死んだときでさえ眉一つ動かすこともなく、ただ無表情に病院で伝えられた死亡手続きの説明をただ聞いていた。

葬儀はしめやかに行われ、すすり泣く声が耳に届いて、ああ、母は愛された人なんだとその事実に安堵していた。けれど、その安堵とは裏腹に夢の中にいるみたいに現実味がなく、ただ明日になればこの悪夢から覚めてしまえるのだと信じていた。

その空想の明日は一向にくることはなく、現実なんだと実感せずにはいられなかった。

母を亡くした私の扱いは、最初こそ腫れ物に触るようなものだった。けれど、時間が経つにつれ、周囲の態度は段々といらだちに変わっていった。

「悲劇のヒロインぶってる」

 友人だと思っていた人の本音を聞いた。

「気を使うの、疲れる」

 いつまで経っても以前の明るさを取り戻さない周りは私から離れていった。

 けして、自分を悲劇のヒロインだと思ったことも、気を使ってほしいとお願いしたわけでもないのに、自分はただ一つの欠けた歯車がない状態でも、必死に回ろうとぎこちなく生きているだけなのに。

 父には新しい婚約者がいる。私は父に一人で暮らしてほしいと頼まれ、現在に至る。自分を愛してくれる存在はもう一人もいないのだと痛感せずにはいられなかった。

 だから、たぶんうれしいのだと思う。

 もう期待してはいけないと、心の中の境界線を踏み越えてきてくれた相手がいることに。

 私は絵本を抱きしめたまま、眠りについた。昔、母が教えてくれた人のぬくもりのように、私は柔らかなその存在に安心して夢を見た。

 私はもう少ししたら、目を覚ますのかもしれない。


 桜の季節が終ろうとしている。若葉が花弁を散らすのを手伝うように大きく存在してきている。

 若葉と花弁、半々といったところだろうか。それもまたきれいなグレースケールなんだけれど、色をそっと心の中で想像してみると、少し楽しかった。

 以前ならチクリと傷んでいた心が、大きく花開いていく。

「桜、散っちゃったね」

 通学路で桜の木を眺めていた私に伏見は話しかけた。

 その瞬間、私は思わずほほ笑んでしまって伏見の驚いた顔で我に返った。

「いや、あの」

 しどろもどろになりながら、言い訳を考えてみるが何も思い浮かばなかった。

「笑いかけていいんだよ。バカだなぁ」

そういわれてさっと頬に血が集まるのがわかった。

私は私という嘘の人間を作っていたんだろう。本当はよく笑うし、少しのことで泣くし、感化されるし、単純で……彼の言うようにバカなんだろう。

「バカっていう方がバカなのよ」

悔し紛れに言い返してみた。

 校舎の人の匂い、シャーペンを押す授業のわずかな音。吹奏楽部の奏でる音楽に耳を傾けながら少しずつ自分の変化を感じていた。

 誰かに何かもらうのってこんなにうれしいんだ。プレゼントよりも、私の事考えてくれたことがうれしかった。

 伏見の優しさが骨身に染みる。今まで血の通ってなかった体が動き出す。

 ああ、そうか。この気持ちが懐かしい。

 これは大事な人に抱く気持ちだと、私は母の笑う顔を思い浮かべながら、伏見に笑いかけた。

「バーカ」

 伏見はほほ笑んでこう言った。

「バカっていう方がバカなんでしょ?」

 悔しくって黙った。

「ねぇ、沙雪」

 私は桜に手を伸ばして花弁に触れようと手を伸ばす。

 伏見は幸せそうに笑いながら私の名前を呼んでこういった。

「沙雪のこと好きだよ」

 花弁をつかみ取れた。そしてその言葉に震えた。

「ありがとう」

 世界が色づいていく。幸せな愛される願望夢なのかもしれないと思ったけれど、私は、これが現実であることを強く願った。

「作に借りできちゃったな」

 悔しそうに笑う伏見に少し疑問をぶつけてみた。

「なんで友達じゃないってっていうくせに、水島を作って呼ぶの? 水島も奏太くんって呼んでるし、関係性がわからないよ」

「内緒」

 指を唇に当てて伏見は怪訝そうな顔をしてごまかそうとした。

「ボーイズラブだったりして」

 私は意地悪でからかったが、伏見はまるで気にもしてないみたいにおかしそうに噴き出した。

「俺は君が好きだよ。沙雪ってもしかして腐女子なの?」

「……バカ」

 茫然としながらようやく絞り出した言葉は口癖のバカだけだった。彼が言っていた好きの意味を理解した。恋愛という意味での好きだと。

 顔をうつむかせて見られないように速足で歩きだす。

私はどうなんだろう? 友達と恋愛の境界線が曖昧な時がある。

 ときめき、ドキドキ、胸キュンという字面の言葉を目にしてみても全然ぴんと来なくて、きっと私には関係のないものだと思っている。

「もしかして……わかってなかった?」

 焦るように伏見は言ったけれど、恥ずかしくなった私は虚勢で怒鳴った。

「黙れ」

「……わかってなかったんだ」

 ショックを受けたように伏見は顔の色を濃くして黙り込んだ。


放課後、部活でアクリル絵の具で絵を描いていたけれど、集中できなかった。ふいに水島に目をやると、水島は写真を模写しているようだった。

「水島は、誰かに告白されたことがある?」

 うつむきながら話しかけてみる。水島は絵筆を一瞬止め、大きなため息をついた。

「……僕、彼女いるよ、だから君の気持ちを受け取れない」

 私の怒りは軽々と沸点を超えて、思わず水島の背中を思いっきりたたいてしまっら。

「痛っ! 冗談じゃないか。君は暴力的だな……。まったく」

「真剣に聞いているの!」

 そう怒鳴ると、考えながらパターナイフを掴みキャンパスの絵の具を引き延ばした。

「何? 奏太君に告白でもされた?」

「あんた気づいてたんだ」

 私がにらんで見つめる先には不協和音が響いてくるような不気味な顔した水島が、笑っていた。

「君も気づいていただろう? 奏太くんにとって君が特別だって。君が言ったんだ。奏太君が異常じゃない、ただのへんてこだって」

 その言葉に私はチクチク突き刺さるようなとげとげしさを感じた。……気に入らないんだ、水島は。

「水島って伏見となんかあったの?」

 水島は視線をずらして絵を見た。その絵は写真の模写らしく、小さくてかわいい女の子がぬいぐるみを抱いて幸せそうにほほ笑んでいる写真で、なんとなくわかってしまった。

「伏見の妹……さん?」

「言っとくけど、僕はロリコンじゃないからね。彼女は別にいるし」

 水島の顔は憎悪に満ちた顔をしていてとても説得力がある表情ではなかったけど、あえてそこは突っ込まないで置いた。

「奏太くんとは幼馴染だよ。僕は早紀美ちゃんとの方が仲良かったけど」

 やっぱりロリコンだったんじゃ、と言いかけて私は言葉を飲み込んだ。バカにしていい雰囲気じゃなかったから。

「水島は早紀美ちゃんの、その……」

「自殺のこと? もちろん知ってるよ。死にたいとぼやいてたけど、本当に自分を刺すまで追いつめられたことは知らなかった。うん……、知らなきゃよかったよ。奏太君がわざわざいったんだよ。僕と早紀美ちゃんの関係を怪しんでたんじゃないかな? だから俺を殺してくれって奏太君が早紀美ちゃんの血の付いたナイフを渡してきた。……もちろん、そんなことしなかったよ? だってさ。そんなことしたって早紀美ちゃんは喜ばないし、早紀美ちゃんが悪いんだよ。自分を刺し殺そうとなんかしなければ、奏太君は僕が嫉妬するほどにいいお兄さんだったんだから」

 凄まじい話に、私は思わず生唾を飲み込んだ。

「水島は伏見になんていったの?」

「罪を償いたいなら、苦しみもがきボロボロになって死ね……だったかな? 死なんて全然怖くないんだよ。早紀美ちゃんはそれをわかってたから死んだんだ。それなら、生きて苦しんで苦しんで、最高に苦しんでからって。それでも今、生きていることは素敵なことなんだよ……。生きているから、全部意味があるんだ。放り捨ててはいけないものなんだよ。だから……」

 思いつめるように言う水島の肩に手を置いた。

「もう、いいよ」

 その言葉を伝えると、水島は別に平気なのにと吐き捨てて、絵を眺めていった。

「……優しいでしょ? 俺って」

 そういった水島の表情が忘れられない。水島の中で張り詰めた緊張の糸はピアノ線のように鋭く、触れれば指をけがしてしまう。

それを理解しているから誰にも触れさせないで、自分の本心を誰にも言わないで、死ぬまで抱え込むんだろう。

一番報われないのは、水島だった。

許さなければ、水島は壊れるしかなかったのかもしれない。

「水島って……」

「もし、早紀美ちゃんが生きてたら、僕はロリコンの不名誉をどうどう受け入れただろうね。もし早紀美ちゃんが生きてたら、きっとロリコンなんて不名誉でもなんでもなかったんだよ」

 こみ上げるものがあった。救われない話だ。誰一人として救われない。

「で? 君はどうするの? 壊れた奏太くんを受け入れるの?」

 私は答えられなかった。そんな簡単に相手の告白を受けれられるものではない。理屈でいうならそのはずだ。

 ただ憧れてはいる。

 もし彼になれるのならきっと私は彼になることを望むだろう。

 彼の鮮やかな感性に恋をしている。彼を通してみた世界は、あの絵本は、きれいだったのだ。色を持たない私でも初めて白黒の世界に感動したのだ。でもだからどうするかなんて、行動として示せることなんかできなかった。

「うれしくはあったよ……」

呟いた言葉がすべてだ。

 こんなグレースケールの世界でもちゃんと色を持つことに、私は彼と出会って初めて気づけた。


「試したいことがある」

 そういわれ、部活が終ってから伏見に屋上に呼び出された。風が強く、長い髪がうねるようにしなる。ヘアゴムは部室に置いてきてしまったし、私は髪を抑えて伏見を待った。

 春に変化しつつあるのに、まだ冷たい空気が皮膚の中に侵食していく。眩い光は息を吸うように瞬いて見せて、なぐような風と、温度を感じる皮膚の感覚を味わいながら世界に初めて感動していた。

 空は夜を呼ぶ。沈む太陽がさよならを告げる。薄暗がりの中はっきりと自覚することがあった。水島が言っていた生きているからこそ意味のあることを、私は感覚で感じ取っていた。

 生きてるって……。

 感じ取ったその答えを心に刻みながら、遠ざかる太陽が恋しくも儚く感じてとても……美しかった。

 太陽が沈み切ったあと、屋上のライトがフィラメントに伝達する熱の音を弾かせて点灯した。

「ごめん、待たせた?」

 幽霊のように気配を消して、突然浮かび上がるみたいに現れた伏見に私はほほ笑みかけようとして、無表情になる。

 私の前を通り過ぎても止まらず、屋上の飛び降り防止の柵に手をかけた。

頭に自殺の二文字がよぎる。

「伏見!」

「沙雪、僕が死んだら悲しい?」

 話しているときの瞳の陰りがぞっとするほど美しかった。諦めにも似たその瞳は、人のそれとは違っていて先ほど感じた普通という基準を驚くほど簡単に飛び越えてしまう、異常者の瞳。

「やめて……」

 強がってみるけど、悲しく映るその瞳は私を食いちぎってしまいそうで。

伏見は震える私が何を感じているか悟るように表情に影を落とす。

「人間ってね。こういっちゃなんだけど、大きな群れを成して生活をする生き物だから、その群れに有益ではないものを排除するようにできている。いじめとかもそうだよ。そんな人間が一番怖いものは何かわかる?」

 そう聞かれて私は考える。

「やめて」

 私は同じ言葉しか放てない。

「話、しよ。大丈夫だから」

 そういった伏見を刺激しないように、私は考え込んだ。

「その理論で言うと、群れをばらけさせる要因になるもの。もしくは、群れの役割を放棄させるほどの不安要因、疑心暗鬼にさせるもの……?」

 伏見は驚いた顔をして、視線をそらし頬を指で掻いた。私は何を考えているかわからない伏見の名前を呼んだ。

「伏見」

 伏見はまるで聞こえてないように、遠くを見た。

「大正解。ちょっと悔しいな……。俺はこの答え出すのに、だいぶかかったのに」

 伏見は笑っているが、やっぱりほかの感情も見え隠れする。

「何を、考えてるの? それ、どういう意味で言ってるの?」

 伏見は私の方を向いていつもみたいに笑ったけれど、直感で感じた。死ぬ気だ。

「あいつがさ、言ってたんだよ。社会生活を行う人間にとって同じ社会に与する人間を殺すことが一番の悪だ。なぜなら個人の人間にとって社会に与するメリットを覆すほどのデメリットになるからだってさ。だから同じ人を殺す行為でも死刑は許されている。善人を悪人から守る行為だから」

 言っている意味をちゃんと理解できなかった。頭がちゃんと回らない。

「なに……言ってるの? どういうことなの? 誰がそんなこと……?」

「作だよ。あいつ、頭いかれてるだろ? 普通こんなこと考えないよ。正しいことを正しいというだけでやってのける。自分がしたいことなんか二の次で常に正しい選択しかしない。バカみたいだろ? 本当は俺の事殺したいぐらい恨んでるくせに……早紀美がそれを望んでないとか言ってきれいごとを愛だとか抜かしてやってのけるんだ。だからあいつは自分の手を下さない」

 そういって伏見はため息をついた。

「……なにそれ?  水島、死ぬなら自分で死ねって言ったの? 人を殺す人間は悪だけど、早紀美ちゃんが悲しむから自分からは手を下さないって?」

「うん。そうだよ」

 思い詰める伏見は柵を登った。光が照らされない暗闇の中に消えようとするのに私は走り寄って柵を同じように登ろうとした。

「伏見! ダメ!」

 柵を挟んで向こう側に行ってしまった伏見に私は叫んで掴もうと手を伸ばしたけれど、恐怖で震える足がちゃんと動いてくれずにころんでしりもちをついた。

 沈みかけた夕日を睨んで伏見は泣きそうな声で言う。

「ねぇ、沙雪。君は人を殺したいと思ったことがある?」

 狂った色をしていた。じわじわと毒を注がれたように、脳裏に浮かぶのは眩しいほどの危険信号。歯の奥がガタガタ鳴るほどに、体が逃げろと叫んでいる。頭がふらふらとめまいを起こすみたいに、混乱している。どうにかしなくちゃいけないのをわかっているのに、伏見が怖くてたまらなかった。

「……ごめ……、私……」

「どうしてだろうね」

 呟いた言葉が突き刺さる。悲しい声が頭に響く。

 誰かを好きになって、誰かに好かれたいと願って、仲良くなるために勇気を振り絞って話して、そういうプロセスを踏めば、その誰かの親しい存在になれたり、上手くいけば好いてもらえるかもしれないのに。

 彼は踏み外す。

 泣きじゃくりながら、彼は言う。

「こんなつもりじゃなかった。どうしてこうなるのかわからない。人を殺したいなんて思いたくないのに、どうして……好きになるほど、苦しくて悲しい」

 その言葉の一つ一つを聞きながら、気づく。

 ああ、この人は悲しいほどに人間だと。

 この人が何を感じ、何を見て、何を思うのか、知りたいと。その景色が本当はすごくきれいなんじゃないかと思えるほどに、私は感化されていた。世界は本当に自分次第で色を得るのだと思わずにはいられなかった。

「泣かなくていいよ」

 私は柵をもう一度のぼる。柵の向こうは怖かった。落ちたら死ぬけれど、でも死ぬより怖い事なんかたくさんある。

 羨望はあっという間に疎みに変わり、尊敬に変わり、愛に変わる気がした。

 私は伏見を抱きしめて言う。

「かっこいいね。見えているものを否定して、自分を正しく導こうとするの。超かっこいいよ。だから……、泣かなくていいんだよ。胸を張っていっていいよ。俺は人間ですって」

 それでも彼は泣きながら、言ったんだ。

「好きになって、ごめん」

 私は彼の頭をなでながら、遠い先の未来を考えていた。彼が誰かに愛される未来を、茫然と立ち尽くしながら考えていた。きっと、次にこういうことがあったら私は殺されてしまう。その先の未来に、この人を愛してくれる人はいるんだろうか?

 私と伏見は抱き合ってしばらく泣いじゃくってから、家路についた。


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