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第3話 色のにおい

 日曜日には図書館に行くのが日課になっている。

 天気が雨の、出かけるのがあまりそぐわない日でも、私は図書館で本を読み漁る。

静寂が人を押さえつける独特な空間。所々古い木材を使われた柱からかおる木の香り。厳かな雰囲気の中で、本の内容を小声で話し、ほほ笑みあう学生たちは見ていてほほえましく、心に惹かれるものがある。

 大きく開かれた窓からに雨がぶつかり、水滴が薄暗い光をわずかに輝かせる。

 この空間はとても静謐だった。

 図書館の自動ドアをくぐり、その先にある絵本コーナーが目に入る。

絵本……。確か、伏見が好きだと言っていたのはエドワードゴーリーだったか。あの絵本は話もダークで絵柄も不気味だ。

 話の独特さと、滲み出る悲壮感で有名な絵本だから、名前だけは知っている。怖いもの見たさで内容もネットで調べて把握してはいる。ただ実際に読んだことはないのだ。

 読んでみたい。もともと読んでみたかったのもあるし、伏見がどうしてエドワードゴーリーを好きなのかが気になって仕方がなくなった。

 彼はゴーリーの何をみて、何を感じて、何に感動して好きだと思ったのか。それはきっと本人にしかわからないことだろうが、彼の考えを考察してみるのが楽しいかもしれない。

 窓の外のしとしと降る雨の音に耳を澄ましながら、絵本コーナーによる。気になる背表紙のタイトルを見るだけで、ドキドキするのは根っからの読書家だからだろうか?

 タイトルからどんな物語だろう? このタイトルからしてこの作者の作風からしてこういう話だろうかと手に取って読んでみて、いつも予想を裏切られるのが好きだった。

 コツコツと普段なら気づくこともないわずかな足音が響くのが耳に入る。いつもなら気づかない靴音や、雨音。紙の匂いに物語が詰まった空間。図書館の書庫の背表紙のタイトルをなぞりながらほほ笑んでしまう。

 楽しい幸せな時間。

 楽しんでいたけれど、どれだけ探してもエドワードゴーリーの絵本は見つからなかった。

(あれ? エドワードゴーリーって子供用の絵本のところにないのかな?)

 確かにあの作品は子供が読むには題材が暗くアンダーグラウンドな世界観だ。子供向けではなく、海外でさえ大人が読む絵本だと紹介されるほどだ。

 だったら、どこにあの絵本はあるのだろう? 忙しく動き回っている司書さんに聞くのも躊躇う。それが仕事と言われてしまえば、そうなんだろうができれば自分で探し出したいし、迷惑はかけたくない。

 私は子供の用の背の低い本棚を中腰になりながら、もう一度探し始めた。

 高校生になって絵本コーナーに居座るのは少し恥ずかしいけど、なんだかどんな絵本だったか、気になって仕方がなかった。

 本当は絵本はあまり好きじゃないんだ。

 赤、青、黄色、聞いたことのある色の名前にはなじみがない。当たり前にあるもの確かにこのページについている色合い。赤鬼の赤、青い鳥の青、木々の緑、想像で色を当てはめてみようとしても、いつの間にか灰色、くすんでしまう。

 匂いで色を感じることもできる人もいるって聞くけど、私は手に取った絵本のにおいを嗅いでみた。……古い紙のにおい。

 印刷したてならわかるのかもしれない。

 そんな淡い期待をして新しい絵本を買ったけれど、わからないことが怖くて遠ざけてしまっている。

 その間にすっかり絵本は古い紙のにおいに変化してしまって、もう嗅いでもわからない。

 私はいつもそんな意気地なしだ。

「……明星さん?」

 一瞬身をすくめた。声に驚いたせいだけじゃない、その声が絵本を探すきっかけになった伏見の声だったから。

「絵本コーナーにいるの、めずらしいね」

 その言葉に何かひっかかりを覚えた。

「めずらしい……?」

 その言葉はまるで普段は絵本コーナーにいないことを知っているかのようだ。まぁ、普通この年で絵本コーナーにいる方が珍しいけど、言い方が少し気になった。

「私が休みの日に図書館にいること知ってるみたい」

「うん、まぁ」

 何も悪びれる様子もなく、伏見は答える。私はいつからみられていたのかと少し怖くなって伏見をにらんだ。それでも伏見は何も気にしない様子で話しかける。

「もしかして、エドワードゴーリー?」

 聞かれて、さっと血が顔に上るのが分かった。影響されて絵本を見に来たのが気恥ずかしくて、視線を泳がせ、ごまかそうとする。伏見がにやりと笑うのが見なくてもわかってしまって恥ずかしさで硬直していた。

「なんだっていいじゃない……」

 尻つぼみな声でうつむきながら、必死に悪態をついた。顔に熱がこもっている様子なんかみっともないから気づかれたくなんかない。だから必死にごまかすことばかり考えていたのに、私を見て伏見は本当に優しく笑った。その柔らかなその声色に安心感を覚えた私はそっと伏見に視線を移す。

「恥ずかしがらなくていいのに」

 優しくほほ笑んで、背の低い本棚を撫ぜる伏見は続けてこう言った。

「エドワードゴーリーの絵本は、ほとんど白黒だがら、たぶんこの絵本は君にとって本当を映した数少ない世界なんじゃないかな?」

 その私を気遣った優しい言葉になぜかくるものがあって、私は前髪で顔を隠してから「ありがとう」と呟いた。

「俺、なんにもしてないよ。それに探しても見つからないのは俺が悪かったから」

 私は自体が飲み込めず、伏見を見ているとばつの悪そうな顔をして頭をかきながら言った。

「俺が全部借りてて、さっき返したんだ」

「バカ!」

 思わず出た大きい声は館内に響き渡った。途端に利用者たちの視線がくぎ付けになる。まるで示し合わせたように利用者たちが静かに指を口に近づけて「静かにね」のジェスチャーをする。私はうつむいて口早にいった。

「で、出よう」


図書館に併設されているカフェに入り、席に着くと伏見が堰を切ったように笑い出した。

「明星さん大きい声出しすぎ。図書館では静かにでしょ?」

笑っている伏見が気にいらない私は、ひたすら小声でバカを繰り返していた。まるで念仏のようなバカの声に伏見はあきれ気味に言った。

「聞こえてるからね。本当。君はバカの一つ覚えなんだから」

「だって、そんな全部借りてるなんて思わないじゃない! 独り占めするなんて卑怯よ」

私はうじうじした態度で、文句を言う。カランとアイスティーの氷が解ける音がした。

眺めていると、まるで仲のいい友人同士がじゃれているようにみえるだろう。

それを自分で客観視すると心がじんっと疼いた。人と関われていることに対しても笑って誰かと話せることに対しても、本当に自分が望んでいるのかも、していいことなのかわからなかった。

「好きなものは独り占めしたいタイプなんだよ」

「ふーん」

 興味なさそうに返事したけど、彷彿と水島が言っていた言葉を思い出した。

「せっかくだし、おしゃべりしよう」

 独り占めしたい人らしい伏見は、もしかしたら今までの一連の流れを読んでいたんじゃないだろうか? そんな疑念が浮かんだけど、ここはあえて考えないことにした。

 伏見のうれしそうな顔を見て毒気が抜かれてしまったからだ。喜んでもらえるなら、べつにいいや。

「明星さんってさ、下の名前なんていうの?」

「沙雪」

ガラス窓につく雨粒が流れていく様子を眺めていると伏見も外の景色をみた。

「じゃ、沙雪って呼んでいい」

 そして突拍子もなく放った言葉に、一瞬アイスティーを吹き出しそうになった。

「……な、なんで?」

 思わず咳き込みながら聞くと、「その方が仲良くなった気がするでしょ?」と答えられ、私は困り顔になった。

「伏見は、形から入るタイプ?」

「うーん。どうだろうね? 君の名前は呼びたいかな」

「なんか、口説かれてるみたい」

 今度は私がからかってやろうと卑屈に笑って言ったのに、伏見は鼻で笑うように言った。

「うーん。どうだろう。違うかも」

「むかつく」

 間髪入れずに言うと、目線があって笑いあった。

 しばらくいろんな話をして雨の図書館を楽しんでいたのだが、ふいにあることに気づいた。

 伏見のアイスコーヒーは減っていない。最初の数回口をつけただけで、以降飲もうとしていないのだ。私のアイスティーばかり減っていく。

「伏見、コーヒー全然飲んでないじゃない」

「うん。話すのが楽しくて」

 楽しいのは本当だと思った。けれど微妙な表情の変化を私は見逃さなかった。

「嫌いなんでしょ? コーヒー」

「……」

 伏見は急に口笛を吹き始めた。その口笛はあまりにもへたくそで吹けてさえいなくて、昔の漫画のごまかし方みたいで思わず噴き出した。

「ごまかし方! 漫画じゃないんだから。ふふっ。あははっ。なんで頼んだのよ。ほかにもメニューあったのに」

 視線を合わせず、伏見は変な顔をしたままいった。

「かっこつけ?」

 決して視線を合わせないのに、舌を出して頭をこつんと叩いている。

「バーカ。照れ隠し上手すぎでしょ?」

「ばれちゃった? うわー。はずっ。こんなはずじゃなかったのに。思いのほか飲めなかった」

 照れている様子をばれたくなかったみたいで、わざとおどけていたようで、伏見の顔は濃くなっていった。見ないでと顔を隠そうとするけれど、私にはあまり変わらない気がするので、そんなに照れ隠ししなくていいのになと他人事のように思ったけど、視線を必死に合わせないようにする伏見がめずらしく、可愛くみえた。

「交換する? こっちのアイスティーまだ半分残ってるし、のど乾いたでしょ? 私はコーヒーも好きだから全然いいよ」

 伏見は少し、私とアイスティー交互に見て、少しだけ頬を染めてうーん、うーんとうなってから、「ありがとう」といって素直にアイスティーを受け取った。

「嗜好品なんだから、無理しなくていいのに」

 私は何も考えず、アイスコーヒーに口をつけた。すっきりとした後味のコーヒーは酸味があっておいしい。

 いろいろ豆の種類で苦みや酸味の味の比率は変わるらしいけど、ここのコーヒーは私にとってなかなか好みの味だった。

「沙雪って、全然そういうの気にしないんだね」

「なにが?」

 私はその時は何もわかっていなかったが、あとから気づいた。間接キスだったかもしれないと。


「そういえば、色を匂いで識別する人がいるらしいね」

 私は驚いて伏見の方をみてから、我に返って平静を装った。

「……あ、うん。ネットに書いてたのみたことある」

 伏見はそういうとにやりと嬉しそうに笑った。

「そこでプレゼントがあります!」 

 伏見はテーブルの下に置いてあった鞄から何かを取り出した。

「分厚いね。小説かな?」

そこに現れたのは、分厚いハードカバーの本だった。私にはグレーに見えるその本にはいろいろな目にも楽しいイラストが描かれている。よく見ると女の子とうさぎ、不気味に笑う猫なんかが描かれている。もしかして。

「不思議の国のアリス?」 

「そうだよ。これは飛び出す絵本。一時、流行ってたでしょ」

 私は生唾を飲んでから、ゆっくり用心して本を開こうとしてみた。

「別にパンチングマシンじゃないんだから。普通にあけてよ」

「わかってるよ!」

 私はゆっくり開いてみた。

 たくさんの絵が浮き上がるように立体になった。細かい絵柄を引き立てるように、細かい仕掛けがいろいろしてあるみたい。散らばったトランプは所々重なっていて立体感を余計に感じるし、遠近をしっかり意識しているキャラクターの位置、畳むときでさえ、それらは緻密に重なり合って、それはまるで巧みに作られたからくりみたいだ。

私は一目で心を奪われた。

「……すごい」

「すごいでしょ? プレゼント。あげる」

「えっ?」

 私はいいよどんだ。

「いいよ! こんな素敵なものもらえない……」

「えー。せっかく喜んでくれると思って買ったのに」

 私はその言葉を聞いて慌てふためいた。

「か、買った?」

「そ。買ったの。君にもらってほしくて買ったんだ」

 私は急いでスマホで検索した。

(飛び出す絵本 不思議の国のアリス)

 検索でヒットした絵本の値段は4250円。

 思ったよりは高くない。でも、これもらっていい金額のものなんだろうか?

「こんな高いものもらえないよ」

 私は悩んだすえ、結局もらえないと伝えた。しかし、伏見は退かず、変なことを言い出した。

「俺の脱ぎたての靴下とこの絵本どっちをプレゼントされたい?」

「はっ?」

「どっちプレゼントされたい?」

すごい圧がかかった表情だった。顔は笑っているのに、半分怒っているかのように顔面の筋肉がひきつっている。

「……絵本」

 いい負かされたように口をつぐんだ。

「高校生にしちゃ高いんだから、ありがたくもらっといてよ」

 カフェを出た瞬間、気が緩んだように伏見が呟いた。その顔を眺めることはできなかったけれど、笑ってはいなかったと思う。

「あ、」

 少しわかった気がする。ああいうときは喜ばないといけないんだと。

「ありがとう。本当は、すごく……うれしい」

 伏見はうれしそうに笑ってみせたけど。

「色の匂い、した?」

「わかんない」

私は正直に答えた。

 感情はめんどくさい。温めて大事にしてゆりかごの中であやしていないと、めんどくささが零れ落ちて、醜態をさらしてしまいそうになる。

 気づかれたくない感情ほど、コントロールが効かないものだから、余計に持て余してしまう。伏見はそれを見てくすぐったいような笑顔になった。

 その時、私は思ったのだ。彼はもう壊れていないんじゃないかって。まるで普通の人間のようで、もうひび割れてしまった彼の心が修復されたんだって。浅はかにもそう思ってしまった。

 一度壊れてしまった人間はそんな簡単に治らないって。その時の私は彼の抱える感情の一つがどれほど彼を蝕んでしまっているのか、気づかないでいた。

 伏見が、その事件を起こしたのは、それから数日も経たないうちだった。



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