「嘘つきな奴がいる」
放課後の誰もいなくなった教室には伏見と私しかいなかった。それを見計らうように、伏見は内緒話を持ち掛けるように私に話しかけてきた。午後の温まった風が光を揺らすようにカーテンがなびく。
「は? 突然なに?」
「言っとくけど、君が思うような嘘とは違うんだよ」
「返答になってない。それに私が思うような嘘ってなによ?」
伏見は一瞬、とてもうれしそうに笑うと、小さな声で私の耳元に口を近づけて、くぐもった小さな声で言う。
「嘘って悪い意味だって思ったでしょ?」
「うん。てか、なんで耳打ち?」
伏見はくすくすと笑いながら、清々しいほどさわやかな声で言い放った。
「その方が、仲良くみえるだろ?」
……誰も見てないっていうのに。こいつは、初めて友人ができた幼稚園児かと、私は外の白黒の世界を眺めてため息をついた。桜の花びらから若葉がちらほらと見え始めて、季節が移り替わろうとしている。その若葉はよく見ないと見つけられないほど、小さな変化だった。……私みたい。
「作っていうんだ。水島作。美術部だから、明星さんのことお任せしてる」
お任せという言葉を聞いて、私は顔をしかめる。
「伏見……。あのさ、私友達百人作るために学校にきているんじゃないんだけど」
伏見は私の顔を眺めてしばらく黙ってから、鼻で笑って「知ってるよ」と言った。
「でも、作は役に立つと思うよ。木を隠すには森っていうだろ」
「……どういうこと?」
「みてればわかる。それじゃ、部活行ってくるから」
伏見はそういって、体操着を持って教室から走って行ってしまった。
「木を隠すには森……ね」
説明が説明になってないせいで、ずっとモヤモヤしていた。
春の匂いをふわりと運ぶ風と戯れる光とカーテンの揺らぎをみて私は、水島がどういう人なんだろうと考えた。悪い意味じゃない嘘つき、それはきっといい意味で嘘をつくという意味だろうか?
そもそも別のクラスの人とどうやって伏見は仲良くなったんだろう? 友人を作る能力も経験も足りない私には理解が追い付かなかった。
私は美術室に歩き出した。一歩何か自分が望まない道へ歩もうとしている。何を望んでいたのかもわからないけど、自滅への一歩を歩こうとしていたその足を少し前を向くために歩こうとしている気がした。
サボればいいのに、わざわざ部活に向かっているあたり私は少しまじめになったのかもしれない。
古い絵の具の匂いと紙の匂いがそこはかとなく匂う美術室。中からは笑い声とイーゼルを立てるような小さな乾いた音が聞こえてきた。
人の気配に思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
横開きのドアを開き、おびえるように美術室に入るとたくさんの人が開くドアの音に振り返った。その眼の色を見て、同じような黒と白なのに、明暗の色合い、筋肉の動き、瞼の見開き具合でわかってしまう。
そうだろうな。あまり歓迎されていないことぐらい、わかってるよ。心の中で卑屈に呟いて私は堂々と顔を上げた。
気だるそうな演技をして、ひそひそ話をする女子たちの間をわざと通り、鼻で笑った。途端に空気が変わり、耳に通る血液の音が聞こえるぐらい静かになった。
私は空いた席に座り、再び騒めきが聞こえだすのを待ってからノートを開いた。
そこには描きかけの美人なクラスメイトの女の子が描かれていて、見つかったらやばいなと心の中で自分を笑った。
「本当に、人のことよく見えているんだね?」
声をかけられた瞬間、とっさにノートを隠した。
「明星さんでしょ? こんにちは。僕は水島。水島作」
明るい表情の水島は、たぶん親切な人だと直感した。伏見と違って笑顔に違和感がない。さわやかな好青年といった印象を受けた。屈託もなく、不細工でもイケメンでもないが愛想がよくて人懐っこくて、人から好かれそうで嫌味がない。けれど、私は突然話しかけられ、あわよくば落書きさえ見られた恥ずかしさで尖った態度をとる。
「勝手にみないで」
水島は急に真剣な顔をして、隠した腕から所々見える絵を眺めるといった。
「モデル美人だね? クラスメイトの子?」
「……うん、美人だったから描いてみたくなったの。でも全然うまく描けないから見ないで」
水島は目線をそらしてこういった。
「絵も確かに上手いけど、そうじゃないよ」
「……何?」
私は怪訝な表情をしていたと思う。その言葉の裏を必死に探ろうと、警戒心を露わにしていたんだと思う。
「奏太くんが言ってた通りだよ。人の表情やしぐさだけで何を考えているかわかっちゃう人だって。そりゃ、ほとんどの人間が空気感とかで大体わかっちゃうものだけど、君のは、人のそれとは少し違うね。必要以上にわかっちゃうタイプの人間なんじゃない?」
その一言でこの人その類いの人なのかと思った。伏見にもそうだけど、こういう類いの人の諦めにも似た表情をたまに垣間見ることがある。
「水島もそういう類いの人間かな? 私が入ってきたとき、一人だけ表情を変えなかったし」
「気づいてたんだ」
水島は、少し驚いた顔をして口元を抑えて考えているようなしぐさをした。そしてしばらくしてからわざと笑ってみせた。
「奏太くんが言ってた通り、怖いね。一秒もなかったでしょ? 教室に入って周りを見た時間。その数コンマで僕のことまで見てたなんて。本当に怖いね」
「悪かったね。怖くて」
私は視線を外して怒って見せると、水島は焦ったように急いで謝罪の言葉を紡いだ。けれどそれさえ、わざとらしい。そして、わざとらしいことを隠していないように感じる。
私は水島の目をみた。
笑顔で何もかもを隠しているように見えるけど、中にある感情がくすぶっている。それは、私に対する嫌悪だった。ずっと疑問だったことが頭の中で噛み合った。
(……ああ、そういうことか)
「私だって怖いわ……。いつからなの? 私が周りのことをよく見てるって気づいたのは」
水島は驚いた顔をしてこういった。
「奏太くんに聞いて――」
そう言おうとする水島を鋭くにらんで吐き捨てるように言い切った。
「バカにしてんの?」
水島は一瞬だけ驚いた顔をしてバカにするように笑った。
「……やっぱ、ばれた?」
そういった水島は、舌を出して失敗失敗と呟いた。ふざけたその様子はまるで友人にするような親しみのあるポーズだったけれど、その舌にはピアスがついていた。
大きなシルバーがきらりと光る。その見た目とのギャップに私はぞっとした。
水島はいたずらっぽくは笑っているけど、そのほほ笑みには悪意しか感じない。
「どうやら、奏太くんを君にけしかけたのも僕だってわかってるみたいだ」
「伏見が邪魔なの?」
言葉を遮るように私は言った。水島は両手を上げて降参のポーズをとった。
「本当、君は怖いね。なんでわかったの?」
私は水島が敵かもしれないと疑い、警戒心を露わにして思い切りにらみつけた。
「伏見は人のこと良く見てるけど、水島くんほどじゃない。それなら、伏見が私に興味を持つわけがないし、体育サボったときにそんなよくわかりもしない一クラスメイトに自分の悩みを話したりしない。それなら、私のことを誰かが告げ口してけしかけた人間がいてもおかしくないなって思っただけ。あくまで可能性としての推測」
「ふーん。それでどうして僕が奏太君が邪魔だってわかったの?」
余裕ぶっているその態度が気に入らなかったが、私を見極めようとするその偉そうなやつを負かしてやりたくて冷静さを装った。
「伏見のどこまで知っているのかはわかんないけど、伏見が私と仲良くなったあとの結果が、水島くんの得にならなきゃ協力しないんじゃない? 伏見は、最近私と話してばっかりだから周りから距離を置かれているし、その方が私以外の人間は安全だもの。伏見が一人になるその結果を水島くんは望んでいる。クラスの中に大事な子でもいるのかな? 目の色を見たらわかる。損なことはしない人でしょ?」
水島は眉間に皺を寄せて、敵意を顔をした。
「色盲なんじゃないの?」
「黙れ。カラーって意味の色じゃない」
私もこいつとは合わないと思った。おそらくそれは伏見もわかってのことだと思う。それなら、私と水島を合わせたのは友達にさせるためじゃない。
「奏太くんが気に入らない。人気者なのに怖い人間じゃない? 彼って」
私は黙ったまま、水島をにらんだ。
「だから隔離したい。それだけだよ。危ないでしょ? 奏太君、壊れてるし」
「……私はいいの? 彼の犠牲者になっても」
水島は悪びれない、そして見下すように言った。
「君も。あまり気持ちのいい人間じゃないからね。一石二鳥」
「二枚舌が」
反吐の出る言葉に嫌味を吐いたが、水島はくすくす笑ってこう言った。
「知ってるよ」
部活のチャイムが鳴り、絵を描き始めた時も水島は大勢に囲まれつつも、私の世話をかいがいしく焼いた。
「なんで面倒みてくれるの?」
「それが奏太くんとの約束だから」
律儀な奴だなと思いつつ、私は水島の絵を覗き込んだ。明暗しかわからないが、線で絵を描かないタイプの絵かきだと思った。繊細な明暗、鋭い観察力だけではなく、思考さえ読み取って表情に深みを出すタイプだ。それは模写というよりはもはや物語を描き出す小説家のようで、才能の差に唖然とした。
絵はたぶん、物語と一緒なんだろう。描き写すだけならきっと写真でいいもの。物語がないとダメなんだ。感じ取れる何かがないと――。
「すぐに明星さんも上手になるよ」
気遣うように水島は言ったけど、自信はなかった。
そういえば、伏見が言った意味今でも分からない。私は描いてる途中に悪いとは思いつつ、水島に話しかけた。
「木を隠すなら森ってなに?」
「何それ?」
何も見当がついていないように、水島は不思議そうな顔をしている。
「伏見が言ってた。木を隠すなら森だって。どういう意味なの?」
水島は「あー」と間抜けな声を上げてこう言った。
「人ってさ、物腰柔らかい信頼のおける人間と関わりのある人を無条件に信用するものなんだよ。その人の評価が周りにも反映される。だからじゃない? 君のような悪目立ちする人を周りになじませるには、僕のような周りから信頼される性悪のそばにいさせるのが一番ってことでしょ?」
そういった水島の顔はそういったくせに、何か腑に落ちない顔をしている。
「なに? その顔」
水島はしどろもどろになりながら、言う。
「いや、意外だなぁって」
「何が?」
そういうと、水島は言葉を濁らせてうなった。
「意外と大事にしてるなって意味だよ。正直、奏太くんは君を孤立させると思ってたから。そうした方が彼の悩みをばらされる心配もないし、自分だけが独占できるでしょ? 明星さんを」
「……そういう腹黒いやつなの?」
「そういう腹黒い奴だよ。奏太くんは」
疑いもないような晴れ渡る清々しい表情を見て、嘘がないことを知った。
「さっき自分でも言ってたけど、水島って性格悪いんだね……」
「なんで?」
不思議そうに聞く水島を見てこう言った。
「本当にいい奴は、伏見の腹黒いところばらしたりしない」
私はなんだか少し大げさに笑った。
「明星さんって笑うんだね」
「失礼な」
言葉とは裏腹に私は笑っていた。
色が見えなくても、きっと幸せならその引け目をなんとも思わないかもしれない。けれど、私はいつも足をすくわれる。
「色目つかってる」
ぼそっと呟かれたその言葉で現実に引き戻されて、私の人間不信は思い出したように心を汚染する。
「そのうちなじめるよ」
気休めの言葉を私は受け入れがたいのに、頷いた。