約300人に1人、青と赤が逆に見えているという都市伝説を聞いたことがある。都市伝説なんて嘘か本当かわからないから面白いはずなんだけれど、この都市伝説に至ってはきっと本当のことだろう。
弱視で色盲。それが私のステータス。
普通の人が見えるはずの赤や青、緑や黄色を知らない。私は生まれてからこの方、色をみたことがない。指先で触れる机の色も、頬にあたる雨粒も、花開き枯れるつぼみの色でさえ世界を映すはずのこの目が色を教えてくれることはない。
「あなたの見ている世界は、白黒映画と同じなんだね」と言われることもあるけど、私にとって映画はいつも白黒だし、目に見える世界そのものがグレースケール。
実際それしか知らないのなら、私の目が映す世界が真実に他ならない。
草が緑で、空は青で。濃淡は鮮やかでグラデーションがどうだって言われても、私の世界は白と黒。
ただそれだけだった。
紙吹雪のような花弁が、視界を白く染めるようにはらはら散っていく。教室の前には日差しを遮るように大きな桜の木がある。
窓を開けようものなら、その花弁が教室の中にさえ侵入してきて掃除当番の手間を増やす。それでも桜が綺麗に見えるこの教室が私は好きだった。
木漏れ日のような光が時折、眩しく輝いて思わず目を細めた。影と光が遊ぶ、陰影の世界。
桜の薄紅や空の青さを知らないことは不幸みたいに言う人もいる。それでも私は思う、陰影の競演だって美しいと。時間が止まり、息を忘れるほどに冷めた風も草の匂いも、太陽の暖かな日差しでさえわかるというのに。
それが不幸だなんて私は思わないのだけれど、それを不幸だと指差す人がいるのは、不幸なんじゃないかなんて、そんなことをぼんやりと思った。
カーテンがふわりとなびいた。長い髪がつられて舞い上がる。
私の心はそのきれいなはずの光景はその言葉に邪魔されて、空しさに変わった。
「明星さん」
振り返るとクラスメイトの男子が立っていた。日焼けをした肌に短く刈り上げた髪は、いかにも明るく好青年とでもいった容貌で、僻みではないが見た目がいい奴はみな性格が悪いの定説を信じている私にとって彼は嫌いな存在を地でいっている。
少しだけ睨むように目を細める私に、その男子は少し困ったように笑った。
「……」
私は顔だけその男子に向けて、次の言葉を待つ。
「あ、えっと。知らないかな? 俺、伏見奏太。同じクラスの」
静かに見据えるその目に、私は思わず視線をそらした。私は彼を知らないわけではない。そしかし、返事もせずその男を見つめるのはそんなくだらない理由からではない。
「知ってる」
「ならよかった」
にっこりとほほ笑むその笑顔にぞくりとする。伏見はいつも目が笑っていない。それを巧みに隠している。腹の底が見えないとかそういう理由なら別に怖がりはしないのだ。そんな人間は山ほどいる。けれど、伏見は違う。ジクジク針で刺されるような居心地の悪さ、氷が肌を這うような冷たい痛さ交じりの視線。うざったような張り付いた笑顔が不気味で仕方がない。
異様さがいつも彼には付きまとっている。私は距離を取りながら、彼を睨みつける。
「あの、さ。……美術部に入らない?」
緊張した面持ちで言葉にした伏見の言葉は意外なものだった。あまりに脈絡のないことを言われたせいで、思わず気が抜けた。
冷や汗が流れていた額を拭い、ため息と一緒に言葉が出た。
「なんで?」
「ご、ごめん! 急になんだっていうんだよな? ほんと」
慌てたように彼は頬を指で掻く。その目を見て一瞬和らいだ気持ちがまた凍る。――ああ、これは演技だ。底の見えない暗さが表情からにじみ出る。薄ら笑い。目の陰が全く光を映さないで、虚ろさをにじませる。なんだこいつは。私を見る目が何を考えているか濁っていて覗けない。混沌、そんな白と黒の点滅。
私から口早に言葉を吐きださせた。後ずさりするように言う。
「絵なんか描かないよ」
男は一瞬、言葉を詰まらせたがすぐに首を振ってこういった。
「それは色がわからないから?」
その一瞬、目頭が熱く、たぎる様に血が沸いた。イライラする。「嫌い」という言葉が頭を埋め尽くして自分が闇の中で一人ぼっちになった気さえする。
昔からだ、私は自分が惨めな蛾だと心の中で耳打ちする。本当は誰かと関わりたいと願いながら、きれいなろうそくの明かりに群がって、その光を触りたがった結果火傷をする。当たり前のようにきれいなものは私を傷つけるんだと教えるみたいに。
綺麗で羨ましいものはいつも私を失望させるんだ。
(だから言ったのに、色が見えないだけで不幸だという人となんか話すから)
自分の声に出さない責め立てが、耳障りだ。
私は、引き寄せるように彼の胸倉をつかむとこういった。
「わかってるなら、いう必要ないよね?」
珍しく私は自分の感情を表に出した。こんな相手に本気で怒ったって仕方がないってわかってるのに。
自分を責めるように教室を出ようとドアに手をかけた。
「待って」
男はそれでもとっさに私の手を握って離そうとしなかったが、私は彼の手を無理やり振り払って教室の外へ逃げた。
灰色の雲。灰色の空。黒と白の濃淡でしかわからない私の世界。
私は飛べない人間が自由な鳥に憧れた気持ちがわかる。私もそう、私も色に憧れた見えない欠陥品だからだ。飛べない鳥は走ることに特化した。泳ぐことに特化した。けれど、私は何になればいい?
できないことを前向きに変えていける生き物だけが評価される世界だ。変えていく努力はしなければ、衰えていくばかりでそうしなければ生きていけない弱肉強食の世界だ。
それを悲観したり、嘆いたりしても、そのまま置いといてはくれない世界だ。
それはある意味希望に詰まった世界なのかもしれないが、ネガティブで性格のひん曲がった私にはとても眩しくて悲しい世界だ。
私はすべての色が見えない一色覚という色盲。日本では一色覚は数万人に一人の珍しい障害だ。
こんなネガティブな奴に、数万人に一人の確立が当たるんだからきっと神様は相当なサディストだろう。
視力も悪く、コンタクトを付けないければならない。メガネで矯正できる度合いを超えてしまっているから、直接目につけるコンタクトの方がまだ負担がないのだ。
絵を描くのは、別に目が見えていればできると思う。灰色の絵を描けばいいし、世の中は便利なもので、色盲の人のために作られた色が見えるサングラスなんて言うものもある。
けれど、どうしても描けない。
一つの欠陥が私の心には致命傷を与えてしまっている。
ただ色が見えないだけだ。腕がないわけじゃない、目が見えないわけじゃない。わかっている、自分はただ甘えているだけなんだと。自問自答を繰り返して逃げ回っているだけだと。
「待ってよ」
伏見は私の後を追ってきた。あまりのしつこさに思わず舌打ちをしてそんな自分にいらだちながら、私は言った。
「部活どこに入るかなんて私の勝手だよ。友達でもあるまいし、一緒の部活に入ろうっていう誘いなわけでもないんでしょ? あんた運動部なんだし」
怒鳴ると声が嗄れる。普段声なんか出さないから、私はあちこち脆い。
「確かに、俺は絵なんか性に合わないし、運動部に入るけど」
「だったら」
言葉を遮って伏見はこう言った。
「俺の妹、色盲なんだ。色盲って赤が見えなかったり、青が見えなかったり、いろいろあるよな……。専門的なこと、俺にはわからないけど俺の妹楽しそうだった。絵描いてとっても幸せそうだったよ」
私はうつむきながら言った。自分を、弱さを噛みつぶすように。
「私と妹を重ねているの? でもそういうの独りよがりっていうんだよ。妹が楽しいなら私が楽しくなくてもいいじゃない。あんたの妹と私は別人。優しさのつもりだろうけど、ただのおせっかいだよ」
私は弱いんだろう。はっきりした拒絶の言葉をあまり口に出したくはない。お互いのためかもしれない。それでも、傷ついた表情は罪悪感という刃になって柔い心の肌に食い込む。血が出るほどにぐいぐい食い込んで、私自身の致命傷にさえなるのだ。
けれど、だからと言ってこんなことされても困る。ここははっきり断らなくてはいけないと唇をかんだ。
おそるおそる顔を上げると、彼が泣きそうな顔をしていた。はっきりとわかる。これは演技ではない。本当の彼の感情だ。
その真実は初めて垣間見る感情だった。だからこそ罪悪感をくすぐるのには十分だった。私は憶病者だ。
「……俺は俺が正しいと思うことをするだけだよ。だから絵じゃなくてもいい、好きなことをやってみてくれないか?」
私は彼の様子を気にしながら、それでも言った。
「ごめん……嫌」
「俺も明星の気持ち、無視してごめんな。……でも、楽しいと思うことをしてほしい」
「なんで?」
彼は無理をするようにぎこちなく笑った。そのぎこちない笑顔に不器用な優しさを感じて私は少しだけ黙った。伏見は本気で優しさで言ってくれているのかもしれない。それでも私は人と関わるのが怖がった。
「正義感ぶって……偽善者が」
あえて顔を見ないようにとどめの言葉を放った。自分に悪意を持っている人と関わろうとする人間はいない。だから、傷つく言葉を選んで使う。私はそれで自分も傷つく、偽善者は私の方だ。罪悪感なんて消えてしまえばいいのに。
おそるおそる見上げた伏見の顔は、意外なことに笑ってしまいそうなほど間抜けだった。はっと気が付いたように自傷するようなため息をついて、ゆっくりと笑った。
「ははっ……よく言われる」
おびえ、恐れがにじみ出る。血の気が引くような冷たい笑い。精巧に作られた人形のような気味悪さと後味の悪さがえぐるように植え付けられる。奥歯がカタカタと鳴っているのに、私はしばらくの間気づくことができなかった。
「あっ……」
何か言わなきゃ、言わなきゃ飲み込まれて都合よく操られる。私は必死に言葉を口にしようとするが、ことごとく言葉にならない。しゃべれない。殺気のような激痛を伴う空気感に息ができなくなる。
私が威圧感に潰されて苦しそうに息をしていると、彼は何か気づいたように目を見開いて泣きそうな顔をしてうつむいた。
それは小さな鱗片だろう、嘘笑いが得意な彼の小さな本性のしっぽ。
一つの感情を押しつぶすように、彼は言葉にしないやりとりで悲しさを伝えた。自分の本性をひた隠しにして、その薄汚さを嘆くように悲しみはしたたる。それは小さすぎる明かりのような優しさに感じた。息が吸える。とっさに言葉にする。
「……ごめん。絵は描かない。それじゃ」
申し訳なさを噛みしめるように私はそう言って、振り返ることもせず歩きだそうとすると伏見はこういった。
「じゃ、友達になって」
「えっ?」
私の違和感を噛みつぶす屈託もない笑顔。普通の人間なら騙されてしまうその表情に言葉を亡くす。その底知れぬ不気味さに私は彼をただ見ていることしかできなかった。
太陽が白い光を放つ朝だ。囀ることをやめた鳥たちは私が通る通学路から飛び立ち逃げ去っていく。明暗の差でしかわからない世界は今日も変わらず、光と陰で満ちていて、光を浴びる木々たちの後ろは薄黒く陰っている。
朝はまだ冷えるようで吐いた息は白く凍ってくすんで、溶けるように消えた。
四月なのに、この地域はまだまだ冷え込む。マフラーを巻いても寒さは消せない。鼻孔が冷たさで刺激され、鼻水で息ができない。高校へ向かう急な坂道に息を荒くしながら歩いていると、遠くの方から声がした。聞きたくないその声におそるおそる振り返ると、彼がこちらへ走り寄ってくるのが見えた。
「明星さん」
絵を描かないかと言われた翌日から、彼は私に声をかけるようになった。
「おはよう」
私は彼の何を考えているかわからないその表情が怖くて、刺激しない程度に話すようになった。
「……おはよう」
そういうと彼は本当にうれしそうに屈託もなく笑う。けれど私は彼の嘘に騙されない。彼は何かおかしい。用心するように私は距離をとる。
「明星さんって何が好きなの?」
それでも、伏見は無神経に話しかけてくる。
「一人で本読むのが好きだよ」
遠まわしに話しかけないでと言っているのだが、伏見はまるで無視をした。
「俺も本好きだよ! 特に絵本かな? エドワードゴーリーとかって知ってる?」
目を丸くしながら、伏見を見た。絵本で……エドワードゴーリー。
わざわざ絵本を好きと言っていながら、残酷で不条理に満ちた世界観のエドワードゴーリーを好きだというその神経が怖い。
校内に入り、昇降口で靴を履き替える。埃と土のにおいがする昇降口は学校特有の薄暗さと大勢の人の匂いがして、顔をしかめる。いつものことだけど、この匂いは苦手だ。
生き物の活力にあふれた生活の匂い、それは私を嫉妬と羨望でぐちゃぐちゃにさせる。
気を取り直して私は聞いた。
「ギャシュリークラムの子供たちとか描いてるあのゴーリー?」
人気者の伏見がこういうホラーな題材のお話を本当に好きか気になって一応、聞いてみた。何かと勘違いしているそういう可能性も無きにしも非ずだし。
「俺はギャシュリークラムより不幸な子供って話のが好きだけどね」
「ふーん」
純粋に怖いと思った。このクラスはこの不気味な男のどこを好きなんだろうか?
物事の本質を見失いそうになる。人気というのは必ずしも優れているわけではないということだ。どれだけうわべを繕えるか。それにかかっているのかもしれない。
「妹が好きだったんだ。ゴーリー」
教室に入る前に、伏見は遠い目をしていうのだ。
妹の話を。
朝焼けの焦げる匂いがした気がした。何かくすぶっているようにもやもやと喉の奥で言葉が詰まる。伏見の妹という存在がなぜか心の中で引っかかって仕方がない。
私は目を薄めて伏見を見た。彼の本質、妹と私の共通点とはなんだろう? それがなければこいつは私と関わろうとしないはずだ。
けれど、伏見に対して情報が少なすぎて何もわからない。かといって長々とおしゃべりして知っていくというのも嫌だった。
わからないのなら聞いてしまうのが一番だと私はにんまりと不気味に笑う伏見の胸倉をつかんだ。
「あんたの妹と私、なんの関係があって私に関わるの?」
「……なんの話? 明星さんと話すのに妹は関係ないよ」
伏見は一瞬言葉を詰まらせたが、その瞳はひどく濁っていてぞっとするほど奥底が見えない。深い闇。
「……嘘つき、あんたの妹なんなの? あんたにとってどういう存在なの?」
私は隠れてこそこそするのが嫌い。だからこその正面衝突だった。
「俺にとって……? 妹は、早紀美は――ただの死人だよ」
そういった彼の目を見た瞬間、足元から這い上がるような恐怖で歯の奥がカタカタ鳴った。彼の表情が今まで見たことのない人間とは程遠いものに見えた。
空ろで底がない筒のような瞳。感情がすっぽり抜け落ちたような喪失感。彼から感じたものはそういう何もないという感情だった。
「生きているなんて一言もいってないよ」
胸倉を掴んだ手の力が抜けた。その言葉の力のなさ、頼りないその肩、悲しみと喜びがチカチカと点滅するような……とっさに浮かんだのは壊れた信号機だ。曖昧で信じてはいけない存在。
意味が分からない。この男は何を考えているのかがくみ取れなかった。悲しいのか、うれしいのか、見えない深淵の闇。
「あんた、なんなの……?」
伏見は少しだけ……別の光を瞳に映してみせた。ほんの少しだけだけど、寂しいという光を。
「……伏見だよ。伏見奏太。俺の名前忘れちゃった?」
少しおどけたように笑うその表情をみて酷く寂しいと思った。彼から染み出る痛みと孤独だけが唯一共感できる感情だった。
言葉を飲み込んだ。否定する気にもならなかった。空ろな彼の初めてのまともな感情。
「明星さんはさ。人のことびっくりするほどよく見ているよね……。そういうの、すごいと思うよ。俺の表情だけで全部見透かしちゃってさ。ほんと、こわいよ」
伏見はそっと目を伏せてこう言った。
「だからそういう洞察力があればさ、絵を描くのに向いているんじゃないかって思ったんだ」
私はぐっと言葉を飲み込んだ。
伏見は思ったより周りを見ているのかもしれない。見ているからこそ、うわべの自分を見抜いてくれる人を探しているのかもしれない。なんとなく、こいつの寂しい瞳をみて思った。
「嫌ならいいんだけどね。ただ明星さんは俺と違って強い人だから、少し憧れて友達になりたいって思っただけだよ。多くの人に囲まれながら、疎外という孤独を恐れない人だから」
私は少し思い違いをしていたのかもしれない。
この男はわからない人間だ。けれど、人間になりたい化け物なのかもしれない。彼という暗闇の中で弱さだけが光って見えた。その光に群がりたくて闇が寄り添っているように思えた。それがなんだか、悲しかった。
「私は……性格が悪いだけだよ。だから一人なだけだよ」
伏見は少し困ったように笑った。そうじゃないという言葉を無理に飲み込んだように見えた。
「言葉を話さなくても行動や表情で理解できちゃえる人はさ、人が危なく見えちゃうんじゃないかなって俺は思うから。あんまり卑下しなくていいよ」
その言葉を優しいと思えるのは、私がほしい言葉だったからかもしれない。優しいとは難しい。今まで生きてきた人生の価値観によって優しさの答えは変わるから。
「性格は否定できないけど」
苦しそうに笑う伏見は、笑顔を作るのがつらそうに見えた。
そんな彼を初めて知りたいと思った。彼の生きてきた人生、彼の言葉の重み、何を抱えているのか。新しく買った小説が思ったより面白くて、夢中になって読み進めるような感覚と似ていたが、私にとってそれは大きな出来事だった。
「伏見、あんた変わってるね」
「うん、悪いふうにね」
苦しそうな笑顔の彼を見て、いつかどうしようもなく壊れてしまって、誰も泣いてもくれない孤独な未来の世界が見えた気がした。
「知りたいことが増えたよ。……あんたの」
あいまいな言葉だった。けれどそれは確かだった。
「おしゃべりしようか。たくさん知って知り合って、理解してよ。俺の事。そうじゃなきゃ、君とは友達になれそうにない」
言葉はその人の重みだ。その発言で私はそう思った。
「幼い頃、俺は自分が平凡なことに不満を持っていた。中二病的なことを言うと、魔王の隠し子でもないし、人とは違う特別な能力を持っているわけでもない。平凡で普通という枠の外に出ないこと悲観していた。主人公にはなれないって。普通っぽいだろ?」
夕方の公園では夕焼けの眩しさが目に焼き付くようだった。茫然と白い光を眺めながら、伏見の話を聞いていた。
ベンチに座ってお互いがお互いを見ることなく、沈む太陽を二人で眺めていた。
「で? あんたは魔王の隠し子だって気付きでもしたの?」
ベンチは少し冷たい。手のひらで触ってみると、ペンキの剥がれが手についた。
「まさか。俺は魔王の隠し子でもなければ、特別な能力があるわけでもない。能力や出で立ちは普通そのものだよ。でもさ、それでも――。俺が異常であることは確かなんだ」
伏見の声の震えに伺うように振り返ると、伏見は震えていた。瞳からにじみ出るのは笑顔と涙。震えながら自分からにじみ出る感情に壊れた蓄音機のような狂った笑い声を押し殺していた。
怖いほど、彼の感情はぶれている。二つの感情が鮮明すぎてどちらも嘘に見えなかった。
「妹の話をしただろ? 妹は小学生。可愛かったよ、年も離れてたし懐いてもいたから。でも本当を言葉にしない子だった」
その二種の感情が浮かんだり消えたりしていた。まるで日が暮れる前の空みたいで、夕焼けのような切なさを感じた。
「あんた、さっきからなんなの? 笑ったり泣いたり。……壊れてるの?」
怒るわけでもなく、ただ気になって聞いた。伏見は平静を装うように感情を理性でがんじがらめにしているように見えた。嘘も本当も言葉で知るしかない。けれど言葉は、誰にもその本質を見極めることはできない。建前と本音が混ざり合う。
けれど、それで理解するしかないのだ。人はそれしか伝える手段がない。
「……壊れているか。人間はどこまでが正常でどこまでが壊れているというんだろうね。俺にはあんまりわからないよ。けど、自分が世の中の言う普通の枠にはみ出した人間だってわかっているよ。わかるかな? 自分でも理解しがたい感情を持て余す苦しみみたいなもの」
「わからない」
私は即答した。
「だろうね」
儚く消え入りそうな声で伏見は呟いた。夕焼けで伏見の影が地面に焦げ付く。黒く焦げて縫い付けられたような影にそっと寄り添うように踏んだ。
「もう気付いているかもしれないけど。俺の妹は自殺したんだ」
なんとなく予想はついていた。妹に固執する理由、本心を言葉にしない妹の話をしたあたりで。
「小学生で自殺なんて、どんなことがあったんだろうね」
遠ざかる太陽を惜しむような表情で伏見は言った。
「結局、わからずじまいさ。妹の司法解剖もしなかったしね。殴られた痕があるとか、いじめられた形跡を探すことはできたけど、本人がいないのにそんなのどうだっていいんだよ。全部は、生きているからこそ意味のあることだし」
「……達観しているんだね。普通、可愛がってた妹が死んでそんなに冷静でいられないんじゃない?」
そういうと、彼は凍りそうなほど冷たい顔つきで言った。
「言っただろ? 俺は普通の枠の中には入りたくても入れなくなってしまったんだって。――俺が見つけたんだ。部屋でぐちゃぐちゃに自分を刺した妹を」
息をのんだ。その瞬間、伏見は泣きながら不気味に口角を上げて笑っていた。
「悲しいと感じているのも嘘じゃない。でもそれ以上に、苦しんでいる妹を見ているのが楽しかった。その時、俺が妹を見て何を思ったかわかる? 自分の感情なのに何一つ理解できなかった。妹が苦しんでうめいているのに、助けられなかった。むしろ感動してた。死ぬ瞬間の命の美しさや、這いつくばって助けを求めるその痛々しさに、胸を打たれていた。血が沸き立つように、俺の全部が塗りつぶされていくようで、怖いのにうれしかった。……うれしいなんて思っちゃいけないのに。ねぇ、俺が何をしたかわかる? 俺は――」
言おうとした瞬間、私は伏見の口を手のひらで塞いだ。
伏見に触れる指が震える。
最初は恐怖からだと思った。怖いんだって思った。けれど、彼の孤独と悲しみを人間じゃないなんて言えなかった。
怖いんじゃない。とても怖いなんて口にできないほど、壊れてしまいそうな伏見をかわいそうだと私は純粋に感じたんだ。
「言わなくていいよ。もういいから」
言葉にした瞬間、涙が出た。心の中からボロボロと剥がれ落ちていくのは、憐みだった。
人間じゃない感覚を持つこの化け物に同情なんてするべきじゃない。でも、それでも、自分が抱いたこの感情が同情ではなく、優しさならいいのにと思った。その感情が彼を救えるならいくらだって注ぎたいと思うほどに。
それは祈るようで縋るようなとめどのない感情だった。
「なんで泣くの? 明星さん」
不思議そうに聞く伏見に私は泣きじゃくって何も答えられなかった。
人間になりたいという、不格好な心を持っている彼が悲しいと思うのは、私が普通という枠にいない人間だからだ。
普通という枠の中にいる幸せはその枠の外に出ないとわからないってこと。他人に気をかけている余裕なんか自分だってないくせに、同情なんてなんの力にもなれないのに。
私は私を責め続けて、それでも彼が救われることを祈るしかできなかった。
夕焼けはあたりを暗く染めて、夜を呼んだ。少しずつ冷めていく夕焼けの空気が痛く感じた。泣き腫らした目と、熱がこもる体に冷たくなる空気が刺さっていくようで、心が空っぽになった。
「明星さんは優しいね」
その言葉だけが妙に頭に響いた。
どっぷりと夜が公園にしみこんでから私たちはまたぽつりぽつりと言葉を交わした。
「ご両親は知ってるの?」
何も言わずに、伏見は頷いた。
「息子のこんな異常行動を目の当たりにして、かばった上に目を塞ぐ両親も十分異常だけど、親の性質とか、複雑な心のうちを考えると正常なのかもしれないね。見たくないものには蓋をするのが人間というものの性質なのかもしれないし」
わかったようなこというなって感じだよねと伏見は笑っていた。少し棘が抜けたような柔らかい笑顔だった。
「なんで私にこんなこと言ったの? 私はあんたのいう正常の枠に嵌まっていたら、私はあんたを警察に連れていくかもしれないのに」
伏見は少しだけ笑ってこういった。
「昔、明星さんと話したのを覚えてる? 体育サボってた時」
私は思い出そうと記憶を巡らせた。体育をサボることは確かに多い。けれどその時誰かと話すことなんてあっただろうか?
あったかもしれないが、それを覚えているほど私は人に興味を持てていただろうか?
わからないし、断定できないほどには私は周りに無関心だったのかもしれない。
「覚えて……ないと思う」
「だろうね」
それなのに伏見はなんだかさっきより楽しげに笑った。その表情は死を受け入れた聖者のように安らかで幸せそうだった。なぜ、そういうふうに笑えるんだろう。
「そんなふうに笑えるんだね」
感心して私はそっと伏見の頬に触れてみた。眉間にはしわの寄ったあとすらなく、いつも平坦で笑いじわがうっすらとあるぐらいで、悲しいほどに意識的に表情を作っている人間の表情筋のつきかたをしている。
「俺、心から笑うことってあんまりないんだ」
私は黙って聞いた。
「でも笑いじわあるでしょ? 笑顔ほど完璧な武装はない。敵意を向けないことが一番の安全策。人に敵意を向けられるのは、あまり好きではなくってね。俺の戦った勲章みたいなもん。笑っていれば、周りはわりと寛大に許してくれたりもするから」
「変なの」
私はそっと視線をそらした。そらした先で黒い世界に無数にある光を見た。星は煌めいて眺めていると足のつかない空に落ちていきそうな感覚になる。
果てしなく大きいものに対して恐怖は限度なくわいてくる。コスモフィリアとかいうんだっけ? こういうの。
私もこいつもきっと、他人を大きな自分とは違うものというカテゴリーに入れているんだ。だから途方もなく目の前にいるものでさえ、人じゃなくて社会として見ている。
大きくカテゴライズされた枠には人は多様すぎて、まるで幽霊みたいに理解しがたく、それに順応できるほど優秀でもない。
だから嫌うんだ。個々の人間としてなら愛せるかもしれないものを、嫌いにカテゴリーしている。
「体育サボったときもこういう話をしたんだ。変なのって言ってた。だから俺はきっと変なんだろうね。君にとって俺は、異常じゃなくて変なんだって思ったら、許された気がしてうれしかった。興味を持って友達になりたいって思うのは、きっとそんなどうでもいい理由でいいと思うんだ」
そういうと伏見はそっと手を差し出した。
「君にとって友人とはどういう意味を成すかはわからないけど。俺にとっては、すべてをさらけ出していつでも俺を牢屋に閉じ込めてしまえる弱点であって、その上、俺の本当を知っているという大事な存在だ。君にはなれる? 僕の友達に。逃げ出すなら今だよ」
そういった伏見の表情は清々しくて、少し諦めているような孤独な表情だった。
「そういうのずるいと思うんだけど」
「なんで?」
屈託もなく笑っている伏見だが、なんだか見透かしている気がした。
「秘密を共有したことで、事を荒立てたくない私にとっては秘密が人質になるってわかってたんじゃないの?」
「事を荒立てたくないんじゃないんじゃなくて、君は優しいんじゃないの? 俺のことを案じているように見えるけど」
私はそっとうつむいて足元にある石ころを蹴飛ばした。石は闇の中に溶けていくように見えなくなる。
「バカじゃないの? 自惚れも大概にしたら」
石を見送りながら、伏見の方をみると彼は少しいたずらっぽく笑って空を見上げた。
「優しくないと僕の話を聞いて泣かないし。こんな夜中までおしゃべりに付き合ってくれないよ。だからわかる。君は優しいって」
私はうつむいて垂れる長い髪で頬に熱がこもるのを隠した。優しいなんて初めていわれた。もし私が優しいのなら、今まで捨ててきた大事な何かをもう一度拾うことができるだろうか? もし、そうならとうれしくなる。
けれどその気持ちを認めたくなくて、ずっとうつむいて黙っていることにした。
「図星をつかれると黙るんだ? 意外とかわいい性格だね」
「バッカ! 何言ってんだ! バッカ! バッカ! バーカ」
私は思わず、顔を上げて怒鳴る。心の中をからかわれるのが嫌で、ごまかすように何度もバカを繰り返した。
その様子が面白いようで、伏見は腹を抱えて笑い出した。普段の笑いじわにさらにしわが刻まれていて顔がくしゃくしゃになって涙も浮かべている。
「明星さんってほんと面白いね。君って本当、いろいろわかっている割にすごく素直だね」
その様子に頭に血が上って私はさらに怒鳴った。
「ちょっ、笑わないで。なによ。バーカ! バーカ!!」
「子供みたい、本当は人のこと何も悪く言えないんじゃない? あと悪口の語彙力なさすぎ。バカの一つ覚え」
「うるさい!」
「あははっ」
顔を合わす度伏見が笑うので、私もついに笑い出してしまった。
「……なによ。ちゃんと笑えるんじゃない」
すねたように言うと、伏見は息を整えてから憑き物が落ちたように幸せそうに笑いかけてくれた。
「君があんまりにもいい人だったから。口は悪いけどね」
「もう!」
私は照れ隠しで声を上げて伏見を見ると、顔が冷静な顔に戻っていた。
「……君は言ったよね。自分という人は常に二人いる。一人は他人から見えた自分と、もう一人は自分が見えている自分。自分から見えている自分は、見ている当人が死んだら消えてしまうけど、他人からみた自分はなかなか消えないんだよって」
「……言ったっけ?」
「言ったんだよ」
少し照れたように伏見は笑った。
「だからこそ、一人だけでいい。知ってほしかった。それが君だったならうれしいって思った。……だから」
息を吸い込んで真剣な顔をして伏見いう。
「僕のことを知ってくれてありがとう」
そういった伏見は消えてしまいそうなほど儚く、透明で切実だった。
その様子はまるで……、自殺した母親の直前の表情と酷似してぞくりと背中に冷たい汗が流れた。予感じゃない。確信だ。
「あんた、死のうとしてるでしょ」
「……まさか」
おどけるようなその表情と母が重なる。焦燥感がじりじりと私を焼くように責める。
「帰ろうか?」
「……どうして嘘つくの?」
生唾を飲み込んだ。わかっている、今感じてるこの焦りはあの時のフラッシュバックだ。
「ついてないよ」
伏見はそういって、歩く速度を速めていく。私は退かない。退くとこのまま見殺しになってしまう。焦りの火は私をあぶる。心の中で何度も言う。
今度は今度こそはと。覚悟を決めたように足早に公園を出ようとする伏見の背中に怒鳴った。
「私のお母さんも自殺したの」
伏見は足を止めてこちらに振り返った。その表情は泣きそうな顔だった。
「癌だった。余命一年でその最後の時まで生きるんだと思ってた。抗がん剤の副作用とじわじわにじり寄ってくる死の恐怖で、心のほうが持たなかった。最後の時、お母さん高いレストランに連れていってたくさん美味しいものを食べさせてくれて、今までしなかった話をして――あんたと同じ目をしてた」
私はまっすぐ見据えた。伏見をまっすぐ見つめて慎重に言葉を選ぶ。
「あんたは友達を一人置いて自殺するようなやつなの?」
溢れだした感情は表情に表れて、伏見は涙を流した。どうしようもないやつだと思うほどに、弱いやつなんだ。彼は。
「友達なんて思ってないくせに」
初めて伏見から卑屈な言葉を聞いた。
「なりゃいいじゃない。あんたがいったんだよ。友達になりたいって」
「……君は。こんな異常者が生きてていいって思うの?」
私は深呼吸をした。息をいっぱい吸って、思いっきり笑い飛ばした。
「私にとってあんたは異常者じゃない。へんてこな人間。それだけだよ」
「バカじゃないの?」
伏見は立ち尽くしたまま、泣いた。
ここで泣ける人間は、まだ人間だと思えた。大切な妹の死を喜んでしまえたことが、その妹を自分の欲求で傷つけ、致命傷を与えてしまったことが、彼にとっては死んでしまうほどに苦しかった。
その事実が何よりも人間らしいと思った。
「生きなよ。死ななきゃいけないなんて自分で決めんなよ」
私はもしかすると優しいのかもしれない。けれど、それが正しいことなのかわからない。間違っているといわれれば、そうかも。
だから私は性格の悪い人間のまま、こいつと友達になろうと思った。
しゃがれた声で一言、伏見は呟いてうつむいた。
「ありがとう」
帰り道、黙って歩いた。暗闇の中、電灯だけが世界を照らしている。美しい白い光の中で、目がかすんでいた。
「明星さん、結局部活どうするの?」
「美術部」
隣からはうれしそうな笑い声が聞こえて舌打ちした。